11/22 22:05
深水遊脚
誰とともに食事をともにするか、というのも日々の人間の悩ましい営みでしょう。好きな人同士で自由に食べることになると、あぶれる人がでてくる。ときに自殺に至るいじめのほんの一側面だったりします。あぶれなかった人も必死かもしれません。和を乱せばいつ自分があぶれるかわからない。いまの私は一人で食べるほうが落ち着くのですが、そういった人間関係を疎ましく思って来た時間が長かったのかもしれません。誰かを自然に食事に誘うのはいまでも苦手です。
とはいえ、誰かと食事をすることは、そう社交的でない私でも時々はあります。それなりにいい雰囲気にしたほうが良いと分かり切ってます。いい大人なので、話を合わせる、膨らませるすべはそれなりに身についていますし、たいていの人は話したがっているので、聞くことを上手くやるだけで良い雰囲気は作れます。
いい雰囲気が美しいわけではありません。会食を首尾よくこなし、契約のひとつ取るという話になれば一種の戦争です。そんな抜き差しならぬ駆け引きと対極にある食卓の姿を切り取った詩が、黒田三郎の「夕方の三十分」だと思うのです。
奥さんが入院していたために黒田さんが娘のユリちゃんと二人で暮らしていたとき書かれた作品です。料理の合間にもウイスキーをちょいちょい飲み、帰ってきたユリちゃんのために折り紙を作ったり、いろいろ忙しい黒田オトーチャマ。いい顔しようとすれば一にご機嫌とり、二に料理となるところ、お酒を手放せないあたりが正直です。ユリちゃんも容赦なく自分の欲求をぶつけます。
ホンヨンデェ オトーチャマ
コノヒモホドイテェ オトーチャマ
ココハサミデキッテェ オトーチャマ
そんな嘘のない不器用な二人がぶつかり、そのあと和む様が詩の最後の2連で描かれます。
かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く
それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
おやじは素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向い合ってふたり座る
本気のぶつかり合いが、何かを洗い流してしまうシーンを、人生に何度経験できるでしょう。