2010 07/15 23:49
「ま」の字
もし、「人間いかに生きるべきか」を主張したいのであれば、詩など書かずに哲学者か宗教家になって、論文や説教を発表すればよいはずだ。
思えばこれがずっと私の疑問というか悩み。というより「しつこくまとわりついて離れぬ観念」だった。詩で思想を取り扱っても、人生の真実なるものを表現してもよい、とは思うようになった。だがそれもその思想や真実なるものと同等以上に「詩」として価値がある場合だ。などと思ってしまう。「詩としての価値」それはたとえば「芸術的価値」といったところだろう。では、その芸術的価値とは何か?。。。
おそろしい。ことばが恐ろしい。何かを主張し、伝達し、物語をつむぎ、説明する、といった形式から容易に離れない。主張や伝達や物語や説明から離れようと思っても、自分の書いた詩からして「いつ、どこで、誰が、何を、どのように」式ではないか。「何かについて」書いているではないか。
私の詩は描写になる、結論(価値付け)から逃れるように、描写のみで語ろうとするが、中途半端だった。いや、間違いだった。描写も「伝達」の一種ではないか。「説明」というコトバコトバした行為を避けるために、一段ことばくささの薄い「描写」に逃げただけで、結局描写によって何かを「伝え」ようとしているうちはダメだ。いや、描写自体はいいのだ、詩としての価値があればいいのだ。だから「詩としての価値」って何DAYO!
ことばを使って行う芸術行為であるというのなら、媒体である「ことば」そのものの面白さがなければならぬ。また、芸術的価値というのだから、「論」や「説明」による説得力をメインにしてはならぬ(個人的には締め出したい)。せいぜいことばの欺瞞性(パラドクスとか)を使う程度だが、個人的に理屈くさいのは嫌いなのだ。だからこそ哲学者にも思想家にもならなかったんだってば! 「言語実験詩」も難しすぎてというよりわずらわしすぎていやだ。特に長いのは。隠喩も結局嫌いなのだと結論を出した。「これは何を意味しているのでしょう」なんて判じ物詩クソくらえ、通ぶりやがって。チキショー、劣等感で泣いてる場合か、俺はよ! 実感にあふれた等身大の詩も要らん。そんなの実人生で味わって十分じゃないか。それでは何か。それでは何か。何が俺の詩か。恐ろしい。いや心底生きる気力を減退させるような答えが待ってるような気もしたが、今ではもう少し違う。寂しく楽しい結論になりそうな気もする。芸術性のハナシはここに書かない、いや、かけない。未熟だからでもあるが、書くと逃げてしまうにちがいない。 いずれにせよ「俺は詩なんかかける男じゃなかった」という気持ちに頻繁になる。そういう中での、書くの止めるかもしれない中でのハナシ。
(独り言書かせてもらいました。コメントしないでくれるとうれしいです)