雑談スレッド[81]
10/14 23:29
渦巻二三五

……………
 「つまり芸術なんてものは何でもええわけですわい。綺麗だと思えばごみでも綺麗だし、素晴らしいと思えば屎尿でも素晴らしい。絶対美だの絶対芸術だのなんてものはないのですな。主観の問題でしかない。だからと云って誰にも理解されんものを作りよる者はやはり芸術家とは呼ばれはすまいな。それは当然だ。しかし、ひとり二人しか褒めんようなうちは、こりゃまだ芸術とは呼ばれん。じゃあ大勢が良いと思うもんが芸術なのかちゅうと、そりゃそれでいいが、他人に好まれるものを多く作る者が芸術家と云われちゃこりゃ少しばかり変ですわなあ――」
 今川の返答を待たずに老師は続けた。
 「芸術と云うのは、こりゃ社会だの、常識だの、そう云う背景があって、それと如何に折り合いをつけとるかと云う問題でしてな。社会対個人みたいな図式がないと芸術にはなり難いようですわい。こりゃいずれにしろ愚僧達には無関係でな。禅匠は美しく造ろうと思ってなどおらん。芸術やろうとも思っていない。禅匠の造るものは説明でも象徴でもない、勿論理屈はいらん。絶対的な主観ですな。世界をぽんと鷲掴みにしてどん・・と出すだけでな。他人がそれを美しいとかんじることがあったとしても、造った禅匠には無関係だ。世間様がそれを芸術と呼ぼうが美術と呼ぼうが知ったことじゃあないのですわい」
 「ははあ――」
 今川はだらしなく口元をゆるませて、丸い目を見開いている。まるで自我崩壊したような表情であるが多分今、彼は猛烈に考えている。
 「喝!」
 「は」
 老師が一喝した。今川は――まるで夢から覚めたように戻って来た・・・・・
 「考えることはありませんぞ。解ろうとしてもいかん。あんたもう解っている・・・・・。言葉にしようとすると逃げて行きますぞ。」
 「はい」
 今川はすうと体を前に倒し、畳に両手をついた。
 老師はその様子を見てからゆっくりと云った。
 「だからな、そんな美術品など禅寺には無用だと、了稔さんは申したのですわい。だから出てくる度に売ってしまった。所詮それだけのもの、有難いと貴ぶよりは、下賤な金に替えてしまった方が潔いと――あの人はそう思ったのだな。何のご縁かは聞かなんだが、あんたの従兄弟に売りよったのです」
 ――京極夏彦『鉄鼠の檻』より引用
……………
ひかるさんの
「抒情詩にするか思想詩にするか、で迷っています。どちらがいいと思いますか?」
という問いは非常に奇妙なものだと思いました。
それに対して山田せばすちゃんさんは、「もっと読者のことを気にしたらどうか」というようなことを言われていて、これもまた問いに対するこたえとしては少し奇妙な印象を持ちました。
ひかるさんはなぜそんなことをひとに問うのですか?
と私は聞き返したいです。
が、ひかるさんが発した
「ばーか」
というのに私は思わず笑ってしまって、なんだかコメントする気が萎えてしまいました(この「笑い」は嘲笑ではありません。決して。なんというか簡潔にしてインパクトのある一言でした。山田さんにはお気の毒なことですが)。
最初のひかるさんの問いからはどんどん話がそれていっているようで、ちょっと私はついていけてないんですが、すゞさまのコメントなど読み返しておりまして、ふと書き込みしてみる気になりました。
「叙情詩にするか思想詩にするか」(この「思想詩」というのがどういうものか私にはわからないのですが)、ひかるさんはなぜそれをひとに聞いてみようと考えたのですか? また、ひかるさんが期待したこたえというのはどういうものだったのですか?
これは私がそもそも疑問に思ったことを書いたまでで、必ずしもおこたえいただかなくても結構です。
スレッドへ