よろず臨時話し合いのぼやきスレ。[89]
2009 04/01 22:13
石川和広

>孤蓬さん

お返事ありがとうございます。
僕が適切な返答を差し上げることができるかどうか心もとないのです。
というのは、僕とていつも平静ではなく非常に感情的なところが多々あるのです。自分がこうだと信じるところを貫徹したくなる時が多々あります。ですので、これといってうまい返事はできないし、孤蓬さんもそれを期待しておられるのでもないと思います。

ただ、僕はなんとなく孤蓬さんが自分の「如何ともしがたい」部分を仰って下さって、ほっとしたのです。うまくいえませんが。

僕からはあまり申し述べることではないのですが、様々な形で孤蓬さん自身も言い争いに参加していますよね。もちろんそれぞれに理由のあることでしょうから、ここで申すには手に余ります。だからどちらの立場がどうこうというようには今は申し上げにくい状況です。事の当否はいかなるものであれ、非常に難しい状況です。なぜかというと僕もこのフォーラムで様々な人と論争になったことがありますが、ある程度のところまで発展した争いはなかなか気持ちとしても論理の上でも整理がつけ難いものです。それで僕自身苦しい思いをなんどかしたことがあります。
さて長々と述べてしまいましたがこれは孤蓬さんのみならず僕もそして様々なこのサイトでの事柄に関して、直接の関係や効果は持たないにしても何か通じるものがあるように思うのです。その文章を後で引用します。
言葉というのは意想外の様々な波紋や反映を心に呼び起こすので、僕は芸術はそれに基礎をもつのではないかと思います。その心から言葉がいかなる不思議か、立ち上がるのだと思う。ひとくちに心といっても、それはそこから自分がそうであるところの何かや、他者が他者であることの意味が浮かび上がってくる裂け目のようなものではないかと思っています。心はそのようにある場合にはわかりにくく、鋼鉄のように沈黙し、ある場合は綿毛のようにやわらかく素朴で当てどなく儚いように思うのです。
以下、詩人、石原吉郎の言葉です。この言葉は僕に何よりも深く刺さりました。



人間が蒙るあらゆる傷のうちで、人間によって背負わされた傷がもっとも深いという言葉を聞きます。私たちはどのような場合にも一方的な被害者であるはずがなく、被害者であると同時に加害者に転じうる危険に瞬間ごとにさらされています。そういう危険のなかでなおかつ人間の深い連帯の可能性(…)を見失わないためには、人間はそれぞれの条件的な、形式的な結びつきから一度は真剣に自分の孤独にたちかえって、それぞれの孤独のなかで自分自身を組み立て直すことが必要であると思います。深い孤独の認識のみが実は深い連帯をもたらすものだという逆説をお考えになってください。

(「肉親へあてた手紙−一九五九年十月」石原吉郎)

sage
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