2009 04/01 08:45
石川和広
>孤蓬さん
私もかつて厳しい合評会での議論等も経験しましたので
文学を育てる力がやさしさばかりではなく、互いの相克や闘争の部分が
あるのを存じています。
文学が世界に対して向けられたものであるなら
様々な他者の声が投げかけられます。
自分自身厳しい批評を受けたり「文学修行」的な側面が自分の書くことを作ってきたようにも思います。悔しいことも苛立つことも、泣くことも、相手を時には不快にさせることもまた経験であります。
ただ、そうして思ったのですが自分が伝えたいとするものがありますよね。メッセージ・思い、それは相手に伝わるまで時間がかかるというのがコミュニケーションの常道だと思うのです。
孤蓬さんなら孤蓬さんが伝えたいことが、相手になかなか浸透しない場合、相手も内的に葛藤を起こしているはずです。もちろんそれで感情的に言い返されるのは孤蓬さんも腹が立つかもしれない。
でも、実際孤蓬さんの知識が有効に伝わったほうがいいと思います。ならば、相手が受けいれるのに時間がかかるという人間の心的なシステムを信頼しようではないかと思うのです。言葉は人間の中で深く咀嚼され、それを我が者とするには時間がかかり、しかし時間をかけて醸成されることが言葉の強い力をもたらすと思うのです。そこを信じたいと私個人は思うことがあります。いや、信頼というと生半可かもしれませんが、文学を形成する力は闘争や相克の一方で、互いを「待つ」じっくりと向き合う。それで無理ならその場は退くことも文学や言葉を育てるのに必要だと思います。
言葉は孤蓬さんのように該博な知識を持つ方も、子どもも病者も等しくつかうのですから、裾野が広いものだということは、孤蓬さんも存じているはずです。そのように裾野が気が遠くなるほど広いのだから、伝わらない時に潔く退くことも文学や言葉をゆくゆく豊かにするのではないでしょうか。なぜなら文学や言語を含む文化は時間が育ててきたのは孤蓬さん自身が年来述べておられることだからです。
孤蓬さんもいうように、それぞれが孤蓬さんの指摘を受けいれるかは自由だし孤蓬さんも老婆心ながら伝えているのだと述べていますよね。だけど、孤蓬さんもしばしば力んでいるようにも見受けられる。互いが苦しそうに見える。そのことが私に懸念されているのです。ですから優しくしろとかそういうことではなく、結果的に文学や言語のためを考えるなら、その時に伝わらないことは諦める、待つことも孤蓬さんのメッセージをゆくゆく伝えられるベターな方法だと私は思ったりします。
孤蓬さんの活動を抑制するのではなく、各フォーラム会員がよりよく参加、活動するためのひとつの意見として理解してくだされば助かります。