2009 04/01 01:26
渡邉建志
松本圭二や藤原安紀子が書いている言葉はラングとして(規約どおりではないので)日本語ではないけれどパロールとしてはもちろん日本語ででもそのパロールとしての日本語は共同体に共通認識としてまだ受け取られていないゆえに日本語ではないということになるだろうか、それともそれは例外としてそこに表現意欲というものがあるから許されるという例外的(わたしは例外と思わないが)措置が臨時になされるのであろうか、しかしその場合松本や藤原の踏み外しを許容する判断主体が読者の情緒に過ぎないのであればどうして無名の詩人の表現意欲に基づく踏み外しを例外とみなさないその同じ情緒の無謬性など論理的に主張しうるであろうか、いや本当に論理のみに足を下ろすのであれば松本も藤原もその他大勢ラングや規約を踏み越えたすべての言語表現者を誤用と断ずるべきであり、しかしこのように論理でいつ誤用をチェックされるか分からぬ雰囲気が新たな挑戦を生み出す土壌となりえぬこともまた明らかで、死んだ閉じた言語世界を意図せぬまま生み出すことになってしまい、よって誤用を許容するという犠牲のもとにしか新しい物は生まれないと私は思い、本人が指摘を求めている場合は別であるが、嫌がられているのに誤用を指弾して本人から表現意欲を奪ってしまうのは危険であると思われ、私は思わず社会主義リアリズムという共通認識を規約としたソ連芸術界がショスタコーヴィチやパラジャーノフに犯した過ちを想起せざるを得ないわけで、社会主義リアリズムもその只中においては論理的であり共同体として自己の無謬性を信じたゆえにそこから外れたものを死にまで陥れても内部から責めるものがいなかったのではないかと思われ、そう考えてみると論理で話しているときにも常に自分の無謬性に疑問を持ちつつパラレルに他の論理体系が存在する可能性に心を開いている事が必要なのではないかとか結局論理性のみの追求は人を救わなくて一見非合理非効率な溜めとか失敗を含むチャレンジこそが人を救うんじゃねえかとかそういうチャレンジを暖かく見守ろうじゃないのとか長い長い(ポツリと一句で言い切ったらしい)