2010 05/23 09:14
AtoZ
危惧したとおり、ものすごくつまらない議論になってきましたね。
でも論点がバラバラになるよりは、まだ、マシかもしれない。
しかし、あきらかにされた論点たるや目も当てられないほど貧相で、果たしてこんなことに
時間や労力を費やしていいのだろうかという自責の念が湧いてきました。
また、
わたしと孤蓬さんの物の見方の違いも一段とハッキリしてきました。
すべての齟齬はわたしとあなたの「物の見方、考え方」の違いから発したものです。
そして、わたしの物の見方は「大人」であって、まことに申し訳ないですが、孤蓬さんの物の見方は「中学生」なみです。
ま、ここで腹を立てないで聴いてください。
たとえば「認識」という言葉使いひとつとっても、わたしの場合は初めから無前提に「実感をともなった認識」をさしています。
小学生がハリウッドの戦争映画をみて、「被害者はまた加害者だ」という図式を記憶することとは同値ではありません。
事実わたしは批評のなかでそのことはちゃんと指摘しています。
「惨劇の欠片」を、「田端」さんの遠い記憶が呼び出す「惨劇」
のなかに見出すことなんて戦争体験のないわたしたちにはでき
ない。
できるとすればハリウッド戦争映画の虚構から与えられた知識
によって構成されたものでしかない。
知識によって構成されただけのものを、わたしは実感をともなったほんとうの「認識」とは認めない。
子どもだって恋愛映画をみれば愛するもの同志の別れは悲しいという孤蓬さんのいう認識=知識を得ることができる。
でもそれをわたしは失恋についての「認識」とは思わない。実際に失恋するまで、ほんとうの失恋はわからないと思っている。
それがわかるまでは「男と女がわかれること」という知識でしかない。
だけど実感として失恋を経験したとき、「男と女がわかれる」ことという知識に自分自身がのり移る。
同じように「戦争においては被害者もまた加害者である」という認識がほんとうに実感として人々に伝われば
世の中から確実に戦争やテロが少しづつではあれ減っていくはずだという確信がわたしにはある。
しかし、わたしがこれまで語っていた「認識」とは無前提で「知識ではなく実感をともなった認識」の由で使っていたのに対して
孤蓬さんは終始一貫「知識」として使っていた。
だから日本の小学生ならだれでも知っていると述べられたのに対して、わたしは、どうすればそんな認識をもてるのか
尋ねた。
一方で、イラクやアフガンの子ども達が実感としてそのような認識に至るであろう過程を想像してみせた。
どちらがいいとも悪いともわたしは思わないが、この落差を埋めようとしても、考え方、感じ方の問題だから
議論にならないとわたしは思う。
よって、これ以上議論しても無駄なような気がするのですが、いかがですか?