2004 08/10 18:20
一番絞り
>81
石川さん。
80の続きを言うならば、〈世間〉というコトバには巧妙なカラクリがあると思うんです。
ずいぶん昔、差別についていろいろ初歩的な勉強をしているとき、
「差別とたたかうことは隣近所とたたかうことだ」ということばにぶつかりました。
どうして隣近所とたたかうことが,
ほんとうに差別とたたかうことなのか。
権力が相手じゃないのか。天皇制が相手じゃないのか。国家権力が相手じゃないのか?
そう思いましたが、そうじゃないという。
反差別を訴えるとき、アピールするとき、天皇制や国家権力などを槍玉にあげるほどラク
なことはないのです。
それをいくら批判し、非難し、ぼろくそにいっても
現代の社会構造では、相手も傷つかないし、己も絶対に傷つくことのない馴れ合いの言説なのです。
ためしに、天皇制やブッシュ政権をクソみそに非難してみなさい。いまでは賞賛が待ち受けているばかりです。
それによって急に給料が減ったり、人間関係がぎくしゃくしたり、友人をなくしたり、投獄
されるようなことはまず考えられない。
現在、一番、強烈にきつい行為とは、差別や権力に対抗するため、隣近所の無知や偏見とたたかうとき
そこに生ずる軋轢に耐えることなんです。
ふだん差別反対を唱えている人が、自分の娘が黒人や朝鮮人と結婚するとなると急にしかめつらをしだすことがある。
あるいは近所に精神障害者の施設やホームレスの避難所ができたとたん、かれらの擁護をしないで沈黙する。
かれらの擁護にまわったとたん、〈世間〉の風圧が待ち受けており、子供は学校でいじめを受けるかもしれない。
それでもこういった無知偏見に挑むことのできる反権力標榜者や反差別標榜者が何人いることか
怪しいものです。
それは、そういった〈世間〉が実はもっとも具体的に怖ろしい反撃力をもっており、じつは
それに歯向かうときに、はじめてその奥深くに生成させているところの権力や権威の反映があるからです。
これはそれこそ、骨身にしみる戦いでしょう。
だから、賢い人は〈世間〉との戦いを回避する。そして、天皇制や国家権力やブッシュを批判して
安全で無傷のまま〈世間〉の賞賛を得るという図式があるわけです。
こういった〈世間〉受けのする言説を、わたしは「ジャーナルな言説」と呼んでいます。
わたしが谷川を詩人もどきというとき
かれがジャーナルな詩人であるということが無条件に非難の要素として含まれています。
これは上記のような考え方から直感的に降りてきた知覚かもしれませんが、
ジャーナルであることには必然的に権力に擦り寄っている側面を内包せざるを得ないのではないかと思っているからです。
もし谷川が「わたしは詩人ではない」といったとすれば
(実際、あの詩を読んだ感想としても)
それは「ジャーナルな詩人」である立場を否定したかったのではないかと、わたしは受け取ったのです。
それから
>本気って何でしょうか?あなたは、ホンネとタテマエみたいなもので、言葉について考えてるの?
本気とホンネはまるで意味は違うのだけど、いずれにせよ、
「自分で問題を出しといて、途中で放り投げる」気はもうとうありません。
これからだということでは、あなたと同じ気持ちですよ。
あまり、焦らないでじわーといきましょう。