批評しましょ[232]
2004 09/04 14:40
田代深子

> 229

> つまり これを作品と呼ぶのならその作品性は撮影された映像の中に
> あるのではなく、「女性が自らの生理を自らの手によって撮影した」
> という事実 その一点に集約されるのではないか。

 まさにその通りであって、だとするとその作品に対しては「完成度」云々という批判が
与えられはするでしょう。しかしそれ以前に、やはりどうしたって驚いてしまうし、その
禁忌を侵犯した行為と意識そのものを「芸術」というふうに言ってしまうことは、できま
す。
 その映像作品を私は観ていませんが、つまりそのように、端的に「血」「傷」のエクリ
チュールを多用する傾向は、しかしやはり変わってきている。むろん個々人にとって「性
の苦しみ」は常にあるでしょう。が、それは男も同様であるという、むしろ男の側からの
主張も聞かれるようになっています。
 「女が表現する女の性」について、現在と、それから80年代以前との違いを考えるとき、
最も大きな違いは女の「痛ましい性」というイメージが薄れつつあるということではない
かと思います。かつて女たちが自らうち出した「痛ましい性」の姿は、近代において作ら
れた「女の性=受容する性もしくは魔性・淫性」という幻想に対しての、諸刃の剣として
の反論でした。実際、「女が表現する」ことに対する社会的・心理的な抑圧と闘い、それ
を実行するまでには、心身ともに傷だらけだったはずです。その自画像が血と傷にまみれ
れるのも無理はありません。(本当に彼女たちはよく闘ったのです。フェミニズムが下火
になってもう長いこと経ちますが、しかし逆にフェミニズムは展開するグローバリゼーショ
ンと世界の再編成への批判の視点として、いまあらゆる分野に介在します。)
 本当の自己表現に到る前に「女の性」を意識させられ捕らわれてしまう、どうしてもそ
れを表現し克服しておかなければ次へ進めない、という時点での「女の性の表現」が、ひ
とつのモード、ムーヴメントになっていた頃があった。それが80年代頃。ようやくそれが
変わりつつあるのかもしれない、と、私も思ってはいるのです。しかし「変わりつつある」
というのはつまりすぐには変わらないということで、しかも私自身のようにかつての「痛
ましい性」…ある種のルサンチマンを、いまだ払拭しきれずにいる女がまだ結構いて(笑)
それがちょっと調子に乗ってきて「驚かせてやろうじゃん」ということになるのです。
(駄目じゃんそれ!)
 しかし本来的に「女が表現する女の性」もいずれ「男が表現する男の性」と同じように、
それぞれの生のさまざまな局面において現れる、麗しく恨めしく情けなく愛おしく暴力的
で根元的な、普通のエロティシズムに(笑)なるのではないかな、と思います。あるいは
「男が表現する男の性」に、もっと多様性が現れてくると面白いですね。

 さて、調子こいて書いてますが、私はフェミニストではなく、フェミニズムやセクシャ
リティの勉強をやめて久しいので、以上に書いたことはあくまで私見であり、誤謬が含ま
れている可能性があります。もし何かお気づきの方がいらっしゃいましたら、最新の批評
シーン情報など、がしがしご報告ください。先日もお断りしましたが「ここで」。
 では。
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