批評しましょ[227]
2004 09/03 07:40
田代深子

 セクシャリティのお話。
 (先にお断りしてしまうが、以下に書くのは批評ではなさそうだ。しかも思いつきだ。
御甘受あれ。もしくは無視する方向で。)

 かつて「女性詩」なるものがもてはやされて以来、ではわれわれの性のとらえは何も変
わっていないのか、というと、否そんなことはないのである。なぜというにたとえば

「奥主氏の言うように〈「やらせたくない」女とか「やりたくない」女が存在するのが別に構
わないのと同じように、「やらせてくれる」女とか「やりたい」女がいても良い〉程度のこと
は普通に言えるしあたりまえじゃん」

というような言説もまた流通しうるし、それを女が言っても、言う女を無効化する傾向の
「倫理」はもはやない。嫌悪する向きはあるであろうが、嫌悪を「倫理」にすり替えて発
言者を責めようものなら、むしろ責めた人間が「偏狭」と見なされるほどに。
 性が禁忌の領域に追い込まれたのはたかだか近代じゃねーかと怒っていたのはフーコー
だったと思うが、しかし彼が暴き、そして死に、 21世紀に到っても、詩を書く女同士の間
で性を「露わに書く」態度に対するせめぎ合いがあり、そしてそれに強い関心を抱く私(詩
を書く女)がまた存在する。われわれはいまだ近代に生きているのか。あるいはセクシャ
リティの禁忌は、やはりもっと根深いのか。 バタイユのいうエロティシズム? それは
死につながるから禁忌なのだ…というあの話を思い出す。
 どちらかというとこれは昔馴染みのジェンダーの発現だ。女が、性的描写を言語作品(と
いう言い方に逃げておく)に著すことと、自身で発語することの違いは何か、あるいは違
いなど存在するのか、ということを考える。酒の席でのエロ話はいくらでもかまわないが、
詩に性的描写を入れるのは疑問だ、という意識を持つ者がいる。逆に、作品に書くのはO
Kだがエロ話はやめようぜ(聞くに堪えない)、という向きもある。どちらも御免こうむ
るという場合も、どっちも気になんないけどなー…てか好きだけど、という場合もある。
むろんそこに善し悪しなどない(とポストモダン風に言っておく)。そして、ぶっちゃけ
どの立場であっても、所詮は近代の性享受のからくりの手中にある。というか、多くの場
合、女物書きはそれを利用するのだ。
 女の言葉に含まれる性的描写は、その内容よりも、「女によって語られる女の性」とい
う妙な磁力によって付加価値を得る。禁忌とされているがために、負の力にさからって引
きずりだされた「女の性」は、禁忌の力を得てエロティシズムを帯びる。いやむしろ「女
が(主として)語る」ということにこそ禁忌のフィルタはかけられており、語る女も、聞
く男たち女たちも、ここに産まれたエロティシズムを、中空に結ばれたエロスの幻影を、
最重要視する(だから「女教師もの」の人気が高いし女子アナはもてはやされる)。驚き
と罪悪感と隠微さ。いまとなっては、セクシャリティ発現の禁忌の各段階は、プレゼント
にかけられたリボンと薄紙のようなものだし、意外にも話題となる「女の性」のスタイル
は限定的だ。つまり私的であるような描写、日常的であり、一般的ヘテロセクシャリティ
の嗜好から大きく外れていないこと…要は市場は大きいほうがよいというネオリベラリズ
ム…「表現の自由」(笑)と引き替えに、新しい性の禁忌が産まれつつあるのだろうか。
(おかしなことに、書店にずらりと並ぶ「女が書いた架空の男の性」−いわゆるBL系−
については、多くの男は関心を示さないし、そのような女の性の発露の、さらなるねじれ
を気にしない。)

 あ、疲れた。

 自分の立場を表明しないのはフェアでないかもしれないので、ちなみに私は「言ってし
まえ」派である。からくり利用だ。驚かせてやりたいと思い、驚くという近代人の反応を
アテにしているに過ぎない。「視線」にまじる下劣さなどは、こちらも持ち合わせている
程度のもので、作品は作品として屹立していてくれれば、卑小なる私など置き去りに、エ
ロティシズムという至上の力を、わずかにでも帯びるのである。まあそんな作品を書けれ
ば、いいね、みたいな。

 いろいろ見落としていることがあるはずだ。何か思いついた方はここでご指摘ください。
この件で私信をいただいても、当方がここでまるごと曝すことを前もってお断りしておき
ます(笑)
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