08/13 13:23
塩水和音
日本最大の思想家と言われる、西田幾太郎の「善の探求」を流し読みしていたんですけど。
「月が美しいと感ずるのはこの月を見ているのではない。月と合一になるのである」
「花の香りを楽しむのはこの花の香りをかぐのではない。花と合一になるのである」
主-客は対立するものではなく、合一になるものだとして、西田はそれを「絶対矛盾の自己合一性」と呼んだ、と。
いや、それって「合一」という言葉を作ってあてはめたのと何が違うのっていう。
ていうか、「月を見ている父を母が見ているのを私が見てる」時は、「月と合一になってる父と合一になってる母と合一になっている」ということになってしまうし、そうやってどんどん膨らみ続けて全てのものがひとつの巨大な塊になってしまうのではないか、と。単に母を見ただけで、そんなことにはならない。
で、哲学ってやべぇ、言葉のイメージとかで現実とすれちがっていく学問なのだろうかと、思ったのです。
西田幾太郎の言うことが正しいとは思わないし、役に立つとも思えない。
正しくもないし役にも立たないものについて怒られてもあまり気にならない、というか、哲学ってもてあそばれてこそ価値の問われるものだと思う。