雑談スレッド5[981]
2004 12/04 20:00
渡邉建志

Nizzzyさん「マティス論」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24971&from=menu_d.php?start=0
を読んで、考えたこと
(感想ではなく、批評ではなく、一人で勝手に思ったこと、程度なのでこちらに失礼)

マティスは自分の娘を描いた。(関係ないけど、彼の描く彼の娘はどこか、
かわいらしく描かれていて、なんか親の愛を感じる)
一段落着いた絵を前にして、彼は娘に聞いた。
この絵はわたしをどこか別の場所へ連れて行こうとしている。書き進めてよいか?
そして、マティスは描写的だったその絵を、抽象的な表現へと描き変えていく。

「連れて行く」というのは面白い表現だと思う。絵を描く「私」が絵を決定している
わけではなく、絵自体もその決定のプロセスに関わっている。「私」だけが決定しているのでも、
「絵」だけが決定しているのでもなく、その2つの主体(?)の絶妙な関わりあいによって、
絵が進展していく、そんな印象がある。力技で絵を開拓するように描いていったわけではないみたい。
決定稿と初稿と現在稿(?)の間で差分をとって、「ああ、8分目まで登ってきた」というのではないのだろう。
そもそも決定稿というものが存在しないのだろう。それを、微分的、と呼んでいいだろうか?
常にその時点での絵と会話していたような、その場所で次にどの方向へ行こうか考えていた、ような
雰囲気なのだ。そこに、マティスの心の震えを感じる。そうやって震えながら進んでいくと、
終着点はどこに至るのか、分からない。広い可能性がある。マティスを見たときに感じる、
きもちが広がっていくような感じは、なにかこのことと関係があるのかもしれない。

その震えるベクトルを、ある方向へ向けるときの、判断基準(いやなことばだけど)とは何だろう。
多分、描こうとする対象との最初の接触の印象をいちばん鮮明に表現すること、なのだろうと思う。

その感動を、心の中に抱き続けることは、とても難しいことだと思う。
そして、その感動を、表現という手法で増幅することは、もっと難しいことだと思う。

しかし、そもそも「対象」ってなんなんだろう?
絵は、何かを描き写す手段なので、納得ができる。
たとえば詩は?音楽は?

なんとなくこのことを考えていようと思う。
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