06/02 08:26
佐々宝砂
「赤シャツ」の続きです。
マキノノゾミの芝居はいくつか観たことがあって、「フユヒコ」と、「東京原子核クラブ」と、あとなんだっけ「パートタイマー・秋子」というのを観ました。わが友人たちは、「パートタイマー・秋子」に私が共感すると思ってたようなのですが、私、あれは当たり前だよなーくらいしか思わなかったし、反対に、無理だよなーとも思ったりしました。私はスーパーで働いたことが何度かあるので、実態はだいたいわかります。寿司や総菜の製作時間の貼り替えなんて毎日の仕事でしたし、前日の刺身の残りをゆでてシーチキンに混ぜてシーチキン寿司やシーチキンおにぎりにするなんてこともふつーにやってました。今もやってるかどうかはわかりませんよ。私はそれがいいことだとは思わなかったけれど、やれと言われたからやりました。刺身をシーチキンにするのに関しては、まだ食えるものを食えるようにして売るくらいは罪悪ではなかろー?くらいに思いました。日付や時間の書き替え貼り替えは罪だと思いました。ほどなく私はスーパーをやめました。うんざりすることがいっぱいあったし一生する仕事ではないとも思いましたから。たぶん、そんな理由で、私は「パートタイマー・秋子」に共感も感動もしなかったのだろうと思います。でも私は、私と立場も違えば時代も違う赤シャツに、深く共感したのでした。私にとって、あれほど身にしみじみと痛かった芝居はなかったです。
赤シャツはうまく立ち回っているつもりで泥沼にはまってゆく。自分はさほど好きでもない女性に追っかけられる。いちばんの親友うらなりは、その女性に一生一度の恋をして傷心のまま遠くに行ってしまう。私はうらなりと赤シャツの友情が、とても好きで、よくわかると思った、私にはああいう友人がいて、でも彼女はもう去ってしまって。赤シャツは、天真爛漫で正直な坊ちゃんやまっすぐな山嵐に憧れつつも、どうしても彼等のようになることはできない。いやなやつだなあと思いながら、ごますり野だいこと付きあい続ける。赤シャツは、もちろん野だいこみたいにもなれない。もしかしたら狸校長みたいにすらなれないかもしれない。赤シャツが惚れてる女は芸者の小鈴で、彼はそのゴシップを新聞記者にしっかり握られてしまっているから。みんなが憧れるものを手にいれても、赤シャツがほんとに欲しい物は手に入らない。
でもお話はコメディなので、舞台はコミカルに続いてゆきます。赤シャツの家の女中ウシがとくに面白い。まるで影の主役みたい。いろんな場面で話をこっそりきいていて、話がいったん終わると思わぬところ(タンスの中とか)から登場します。ウシの存在が、やわらかめのスパイスのようにほどよく効いていて、悲劇的ですらあるかもしれない物語をコメディにとどめていました。
「赤シャツ」を観ながら思ったのは、「ベニスの商人」と「吸血鬼カーミラ」のことでした。シェークスピアの「ベニスの商人」は喜劇です。金貸しはひたすら悪者です。でもそれを金貸し側からみると悲劇にかわってしまう。「吸血鬼カーミラ」は、マンガ「ガラスの仮面」での一挿話としてでてきます。姫川亜弓演ずる女吸血鬼カーミラは、本来ひたすら悪役でやっつけられるべき存在。しかしカーミラの側から物語を観たら? それは恐ろしい悲劇です。物語の解釈はひとつではありえない。詩の解釈もまた、ひとつではありえないのだろう、と私は思います。その解釈が、たとえ、作者の思惑からひどくかけ離れたものであろうとも。