【議論】詩ゃべり場【口論】[27]
2007 02/14 21:46
ふるる

人の抱える根本的な矛盾は、
神でもないのに、ある局面では神様的に人の生き死にを「決定できる」ことです。
「生きていたほうがいい」「殺してはいけない」なら、ものすごい犯罪者でも死刑にはできないはず。
お前はよくて、お前はだめ。善悪という人が決めたものを掲げて、
人が、人に向かって「お前は法律を破ったから死ね」「お前は民主主義じゃないから死ね」「民族や宗教が違うから死ね」
と言うのです。子供でも容赦しません。

こうやって、善悪という大義名分を掲げて共食いを続ける人間は、はたして健全な生物なのか。

今生きている人間は、この大義名分を掲げて共食いを続けているという自覚があって、それを全て受け入れてなお、
「ただ生きているだけでいいんだ」と言えるのか。

私にとっては人間が生きるということは、「善悪という大義名分を掲げて共食いを続ける」ということです。
凶暴な仲間を殺して(食って)自分は生き延びる、ということ。他の動物となんら違いはないです。
共食いなしには生きてはいけない。血塗られた祖先の血塗られた子孫です。
たまりませんね。
普通の動物なら、生きることと殺すことは同じなのに、人間は殺すことについては「悪で罪」と言うのです。
言ってるわりには、自分の家族以外は殺されたってまあいいや、みたいな感じです。
若い頃の私に言わせれば、人間は他の動物と比べたら、卑怯で汚い。単純明快な、生きて殺すことに法律や宗教などで善悪という色を塗りたくって汚している。それに目をつぶって生きている。
他の人間が酷い目にあっても目をそむけて生きている。
「自分にはどうしようもないさ」とか「あっちにも悪いところはあるのさ」とかいって。
自分が弱くて弱くて弱いから。
一番嫌なのは、自分もそうであり、そうでないと生きていけないということ。全ての人は救えないということ。
社会のシステムがそうなってしまっているということ。
ああ汚い、汚い、汚い。まったく純粋でも美しくもない。ただ、保身、保身。保身で臆病なものたちの血塗られた歴史。
そうまでして生きる意味は何なのか。生きる価値が私にはあるのか。
人特有の悩みではあります。人だから悩んでしまうのだとも思います。
けど、悩まないで、人の苦しみに目をつぶって暮らしていいってことにはならない。

現在の私は、理由はどうあれ、子供を攻撃する人間は「悪」で「場合によっては死刑」だと決めます。
子供を傷つけるものは生きる価値がなく、そうでないものには生きる価値がある、とします。
自分は神様でもえらくも何ともないのに、人に価値をつけて、そう決めてしまいます。生きなければならないと分かったから。

ほんとうは、その人間もかつては傷つけられた子供なのに、かつてその人を傷つけた大人は知らないから罰しません。
ほんとうは、その人も生まれた時は無力な赤ん坊で、悪いのはそうさせた社会や大人なのに。
それは分からないから罰しません。

純粋な生きる=殺すことに、「悪」という色を塗りたくって汚し、同時に自分はそういう「悪」じゃない、
きれいな人間、いい人間。だから「悪」は罰せられなさい、でも私は警官じゃないから見てるだけね。
という生ぬるい場所にいることを良しとしています。

若い頃の自分が憤り、軽蔑していた人間の一人になりさがっているわけです。
人が生きることは、生きるという単純なことに「善悪」というレッテルを貼る、汚いこと。
そして自分もレッテルを貼り、貼られていて、例外ではないということ。
自分だけは例外でありたいのに、人として生まれた途端に全てを背負ってしまう。

これが私の抱える矛盾であり、不平等であり、一生背負っていく人の罪のようなもの、
本来的には人には人の生き死にをどうこうできる権利も権限も理由もない。法を犯して
いないからといって綺麗でも、立派でもない。生まれた時からすでに矛盾しているんだから。
それを忘れると「善悪」にとらわれて目がくらんで、いざという時に、自分を含め、殺さなくてもいいものまで殺しかねない。
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