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【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉 (創作系)スレッドオペレーター:ハァモニィベル
***

【petit企画の館】

当館へようこそ!いらっしゃいました。
お気軽に中へどうぞ。

この館の【趣旨・目的】は、あくまでも「創作を促進すること」です。

 --------------*--------------
ここでは、次のことを、お愉しみいただけます。
 --------------*--------------


◆Menu◆

【1】:プチ企画をつくり、この場に投げる。(テーマだけでもよい)
【2】:企画について検討し合うのもアリ。
【3】:企画者と参加者は、それに沿った作品をこの場/その他に投稿/報告する。
【4】:前のプチ企画が終了したら、次の企画を提案する。
【5】:自由に関連した話題を提供/談義しながら、創作意欲を刺激し合えればgood!

(注意書き)
********************************
詩に限らず、文芸全般・漫画原作・映画(ドラマ・舞台)シナリオ
など、和洋、古典・現代 を問わずに、俎上にのせてかまいません。
********************************

オカシナ記事が書かれた場合などには、スレ主の判断で、いきなり、又は注意忠告をした上で、
削除する場合もありますので、事前にご了承ください。

基本的には企画提案者が仕切ってくださる方がいいので、自由円滑に書いてもらえたら
うれしいです。読んでいる人が愉しいと思う場所にぜひしてください。

(尚、本スレッドは、下記スレッドを引き継いでいます。
 http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=316267 )

それでは、開幕です。

********************************

[355]ハァモニィベル[2017 01/21 14:08]
*(>>353

伝承文学である英国のバラッドには、しばしば

  子どもを殺す母親
  妹を殺す兄

などが、出てくる。

「愛情深い母親」 と 「家族を養う逞しい父親」を前提とする
「近代家族」は、西洋で18世紀頃に市民社会の成立とともに
誕生した。

と言われるように、
「家族」観というのは、時代によってかなり違う。

とはいえ、
現代は現代で、子殺し、親殺しのニュースは、けっこう目にする。

家族の実像は、いつの時代も《ミステリ》なのであろう。
だが、近代以後、現代の方が、一層、ミステリと感じるのかも知れない。



バラッドは、作者不詳の物語詩であり、もともとは、うたでもある。
吟遊詩人等に伴奏つきで謡われて、各地に伝わった。(最盛期は15世紀)
 (東大で講義を始めたとき、バラッドを取り上げたハーンが、「耳なし芳一」に注目したのはうなづける)

印刷術の発達を受けた16世紀には、路上で歌いながら、印刷された歌詞と楽譜
が売れるようになる(バラッド作者というのも出てくる)が、これは、瓦版というか
当時はニュースの役割も果たしていた。

近代以前は、センセーショナルな話題が、伝承詩になって歌われたのに対して、
現代、シンガーソングライターが、殺伐とした事件を歌うことがないのは、
ニュース報道がそちらを担当しているからだろう。

江戸でも、事件は、すぐに歌舞伎などの演目になったが、
いまは、TVのドキュメントや再現ドラマで観ることになっている。



アガサ・クリスティーのおかげか、ミステリーと言えば、マザー・グース、という連想が可能であるが、
マザー・グースの唄は、もとはバラッドであったりする。
その、たんたんとした物語詩ぶりや、ミステリぶりは、

(歴史文学)であるとか、(ミステリ詩の実験)であるとかを考えている
 この場所では、
十分に見直される意味を持っている、と思います。


 

[353]ハァモニィベル[2017 01/21 01:37]りゅうのあくび
>>352 ご寄贈感謝します。
----------------------------
長庚さんのコメントが短すぎて強烈ですが、

「比較文学の先駆的作家」、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
がここで顔を出すのも、興味深いですね。



比較文学は、世界的視野と博識、固定分野に囚われない自由な発想が、評価され得る(又は
報われる)分野ですが、そこで魅力を発揮する、ハーンという存在を、きちんと、見つめよ
うという―ことだとしたら―、なかなかのチョイスだと感銘をうけました。



ハーンが、東大で教え始めたのは、明治29年(1896)のようですが、
そのとき、詩に関する講義の中で、英国のバラッドについて解説しながら
唯一、全文を引いた作品が、次のバラッドだった、と言います。

   ”The Cruel Mother”   『残酷な母』


  (以下は、私による大意訳)


  女がひとり 茨の上で 赤子を生んだ。

  微笑まないで そんな風に 可愛い赤ちゃん

  ニコニコ わたしを 殺さないで。


  女がひとり 月の明かりで 掘った墓穴

  中に、可愛い 屍骸を埋めた。


  ある時、教会へ行く道すがら 女の前に

  立っていた。 可愛いこどもが、門前に


  「おお、可愛い坊や。 わが子なら
   絹や毛皮を着せるのに」


  「おお、やさしい母さん。 わが子には
   冷たい土をくれたのに。

   でもね、僕は天国だ。
   あなたは、地獄を抱えてく 」





 時折、ナーサリー・ライムでも、こうした残酷でパンチの効いた
ものがありますが、このバラッドは、宗教的な影響もありそうな
気がします。
 但し、責めている様にも、許している様にも、受け取れる両義性のある
作品になっています。
(私の意訳では、もっと一般的に、
最後を、人間の罪と罰として訳しました)



まあ、
人間にはいろいろ、境遇や立場がありますが、

ふつうに考えると
きちんと育ててもらえず、
土に埋めれてしまう
というのは、
私には、けっこう「地獄」のように思えますが
保身して生き残った者の場合は、はたして「天国」であるのか、
それは、まったくもって(謎)です。


 

[349]ハァモニィベル[2017 01/19 19:28]
>>347(作品by長庚さん)

剪定ということを感じました。


**

   「静物」  
         萩原朔太郎  
     

  静物のこころは怒り

  そのうわべは哀しむ

  この器の白き眼にうつる

  窓ぎはのみどりはつめたし。



**

さて、そしてまた、

 ミステリの要素は・・・一体何処へ・・?

 (歴史=個人史は全くOKですが)


**

   「殺人事件」  
            萩原朔太郎


  とほい空でぴすとるが鳴る。

  またぴすとるが鳴る。

  ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、

  こひびとの窓からしのびこむ、

    (-以下略-)


**

 ミステリ= ※

の、※ は、「怪奇」・ホラーでも、「幻想」・ファンタジーでもいいわけですが、

「謎解き」・本格もの、にももちろん挑戦の余地があります。


 成功か否かはともかく、色々実験してみるのもまた、愉しからずや、です。


 

[345]ハァモニィベル[2017 01/18 19:49]
長庚さん、蛾兆さん、 ご感想ご批評ありがとうございました。


 名画×(歴史×ミステリ)ということで、

 四枚の肖像画がわたしに語りかけたお話ということで書いてみました。

また、ぜんぜん趣向を変えて、
さらに幾つか色々と挑戦してみます。




 蛾兆さんの評にあった、「一番楽しそうに」微笑んでいるのは・・・
という、視点で、そばにいる女性をときには肖像画として観てみたい気がします。
その肖像の微笑みの影は、そばにいる男の愛情が描くものでしょうから。

 と、言っても、私にはそばに居てくれる女性がいないので、豊富な資源があっても
無駄に眠ったままですね。
(美しい肖像画)が、(幸せな肖像画)でもあるように描かせてくれるモデルを、まず
は連れてこなれば…。しかも、私の自画像が、「ドリアン・グレイの肖像」にならなく
てもいい人を…。


 シャーロック・ホームズのもとを訪れた人物に、ドクター・ワトソンが言いそうな
な長庚さんのコメント>>344 (男目線で見てみたのでしょうか。面白いですね)
 

 ジョージアナの境涯については、

   ★ 「ある公爵夫人の生涯」

 という(2008年の映画)があります。



 

[341]ハァモニィベル[2017 01/17 19:37]りゅうのあくび


 『微笑む肖像』


荒涼とした
砂漠をゆく 幻の駱駝が、
ふいに
輪廻するように、

ときに肖像画は、
物語を話すことがある。

ルーヴルからある日、
怪盗の手によって 彼女は、
その微笑みと共に消えた

よく似た六枚の微笑みが その時、
六人の金持ちに売れたそうだ

ある日、彼女が何食わぬ顔で戻ってくると
人々は、準備しておいた詳細な細部の原型を取り出してきて
そして、彼女の全身を調べたという。

また、ある人々は、彼女がそもそも誰なのかを
以前から知りたがっているという。
高脂血症を病んだ人物のセルフィ―であるとかないとか・・・
はたまた、画家の母であるとかないとか・・・
美女の行方はつかめていない
勿論、お解りのように
彼女の名は、ダヴィンチ作 『Mona Lisa』 だ。


戻って来た時、オークションハウスで8億円で落札されたと言うのは
攫われた姫君、クラナッハ作 『ジビュレ・フォン・クレーフェの肖像』だが、
彼女には妹がいる。

ホルバイン作 『アン・オブ・クレーヴズの肖像』のことである。
1539年、イングランド国王ヘンリー8世は、妃を探していた
そこでお抱えの宮廷画家 ホルバインを外国へ派遣する
姫たちの肖像画を描かせる為だ
そして、選ばれたのが、四番目の妃 アンだった。
ただ、その美貌の肖像画は、
クロムウェルとホルバインの合作だったらしい
王室史上最高のインテリと言われ、スポーツも万能であったヘンリー8世は、
気性も荒く、トマス・モアを処刑して六回も結婚している人だ
それが実際に、やってきた実物のアンを眼にしたとき、
そのささやかな瞬間が、歴史を動かし
半年後、まったく肌に触れられぬまま、アンは「王の妹」となり、
やがてクロムウェルの首が、『ユートピア』を書いたトマス・モアと同じロンドン橋の上に
架けられることを意味した、としても、おかしくはない。


それにひきかえ、
奪った怪盗の心を奪ってしまい、けして離さなかった美女もいる。

金の為でなく、ただ その絵のために
その男は 奪い
二十五年間、
どんなに貧困なときも 肖像を手放さず、抱き続けたという
 (モナリザが盗まれた頃と同じ、
  1900年ごろの話である)
その名画泥棒が手に入れたのは、
当時、世界最高額の絵画だった
ゲーンズボロ 作
  『デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ』 である。

実物は、英国一の美貌といわれ、
セクシーでもあり、スキャンダラスでもあった。
「待ってちょうだい、・・・十七のころは、誰もが振り返るほど
美しい公爵夫人だったのよ。それを覚えておいて」
そんな魅力的な彼女の死後、
一世紀を経て、オークションにかけらた時も、なお
その魅惑によって、誰もが振り返るほどの飛びぬけた落札額を叩き出した。
そして購入には短期間の一般公開が義務付けられた
その男が、彼女を奪ったのはそのときだ。
1876年5月の夜であった。

それから、二十五年間、片時も離れずに
彼は、彼女と過ごしたという。旅行の時も、二重底の鞄の下に入れ、
寝るときも、マットレスの間に挟んで伴に眠った。
警察に追われ、窮地に陥ったときもあった
カネに困ってどうしようもないときもあった
そんなとき、同業者は誘いの水を向けてくる
だが、その肖像画だけは、
どんな時でも頑として、守り続けた。
やがて年老いて、
ピンカートンの探偵たちに追いつめられるまで

どんな時も、彼と共にいた美貌の公爵夫人は、後世
1997年パリで謎の死をとげる元英国皇太子妃を子孫にもつことになった。
そして、
あの美貌の肖像画を愛し続けた男は、
シャーロックホームズの強敵、モリアーティー教授のモデルになった。



 

[338]ハァモニィベル[2017 01/15 21:47]
*

>>337(事件No.6)

 こういうのは、それなりに成立する作風、と言えますね。
 褒めるにせよ、貶すにせよあまり気が入らない評が集まりそうな印象を(わたしは)
持つ様な作品です。

 こういう作品の場合は、作者が金井美恵子的な感性を備えていて欲しい、
そういう作品なんだろう、と思います。

 大衆的なオモシロさとか、文芸的な美しさとか、と同じ高さで、その中間にあるのが名作
であるのが、名作のもつ凄さだと言えるかもしれませんが、その高度が低くなるほど、退屈
になる。そんな気がしています。

 内容で、にしろ、文章で、にしろ、どっちみち、感性が、読者を最後まで惹きつけるポイ
ントでしょうから、こういう作品の本来の書き手というのは、

 冒頭の、「ぎゅう」 のところに、作者の個性が出るものだし、最後の、「果物を食べ」
るところに至っても、読者を逸らさないものだ、

 など、そんな事をふと思う作品でした。




>>335(事件No.5)

 刀、銘刀ばなしは、私は(詳しくはないけど)好きかも知れません。

 ムラマサ は、確かに、見た瞬間よい、という感じなのが、(私的には)凄いところです。

  他のカタナには無いフォルムを持っているんでしょうが、物理的フォルムを真似れば
はたして、ムラマサになるのか、は疑問です。

 村正は、その形を目指して作ってるわけではなく、村正が作ると、ムラマサになる。そう
いうものの様な気がします。

 *

 因みに、私がかなり好きな 刀 は、 キヨマロですね。(正しくはスガマロだそうですが)
尖端部分の形状に、斬るという本質的な機能が融合した美を感じます。

そして、
 一番好きなのは、その源清麿の兄の作、
  マサヲ〈真雄〉 です。


(刀工、山浦真雄の逸話は下記参照)
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/50637b7487e11ab6fc2578d1ec6ee425



 

[336]ハァモニィベル[2017 01/15 15:47]
(スレッドオペレーターより)

336を削除しました。

(マナーに反する下劣な落書きは当然スレ主に掃除されますが、
それを、作品として見た場合に、やはり本スレに載せるに値しないほど
芸が著しく劣るものが、ボツにされ=削除されることがあります。) ※劣る程度なら削除しません。

創作系なので、雑談であっても、創造性や、それへの意欲ぐらいは、ほしい所です。



 

[334]ハァモニィベル[2017 01/15 00:03]
*

>>331 (事件No.3 長庚さん)

星新一風に展開してきて、オチのところだけが圧縮されているのがバランスが悪いですが。

>あなたのイヤな記憶をほんの少し消去します

ここが要となった、優しい作品でしたね。




>>332(事件No.4 蛾兆さん)


完成した楽しい作品でした。

 ラスト付近に、蛾兆さんならではの一語「ラブ~」という指紋を残すあたり、
なかなか義賊だなあ、とルパンならぬ、ルパン三世なところも含めて、面白い作品でした。



 デンマークのシェラン島、リングステズで、2008年12月、“サンタ”の格好をした泥棒が
目撃されたという事件があり、泥棒中の“サンタ”は、その家の少年に玄関で見つかった
といいます。警察当局によると、「サンタクロースや妖精の存在をもはや信じていない少年」は、
その“サンタ”を追っ払ったということです。(ネット情報なので定かでありませんが。)

 女の子の場合は、いったい何歳くらいで義賊と義賊もどきを識別できるようになるのが
いいのでしょう。

 それは、自分を奪い去った相手が、義賊ではなかったことに、気づいてからなのでしょうか。


 なまはげが来た時、鼻で笑うような子どもというのは可愛げがない、やはり、泣き叫ぶような
子どもの方が愛らしい。

 だから、きっと、女性たちは、どこかで、自分の男が義賊でないことに、気づいていても、
気づかいないフリをしているのかも知れませんね。愛らしい素振りで。


 探偵紳士は、目が利くので、贋物でない、本物の女義賊を、必ずやこの腕に捕らえてみたい、と思っていますが
なかなか手の届くところには現れてくれません(笑)。


 

[330]ハァモニィベル[2017 01/14 15:52]
タイトルが、全体のオチになってるんだから、

バッサリはダメでしょーね。


「アトランティス」を、

 ―→ アスモーディア

とか、別の未知なる名前に変えれば、
いいでしょうね。



作品評をする必要がなくなりますが、
細部に気になるところが多いのが(1)でした。

例)
>〔復元の為〕どうしてもこれを作りたかった

という一途な男が、そもそも、どうして

>指輪を外して渡すと

と自分の意志で(わりと容易く)外してしまうのか、

とか。

わざわざ、
>教会で

と一言入れているが、なんの意味だろう、とか。
考古学者だが、敬虔なカソリックなんだろか、

とか、なかなか、男に愛が深かったと読みたいところだけれど、
読者として共感できない、腑に落ちない箇所が目につきます。
そして、それは、異化されているようにも見えません。


それでも、全体観としては、
リフォームすれば面白さが増すであろうこと、また
書手自身の(借り物でない)詩情の核は、ちゃんと存在するのを
感知できる作品なので、

印象は悪くない、と思っています。

(作品2)は、文を素朴にするほど、さらに良くなるという印象でした。


(以上を、作品評にかえて)
 

[328]ハァモニィベル[2017 01/14 15:09]


私の言うリアリティは、「読者へのリアリティ」ということなので

リアリズムで書け、ということではないから
その辺には、ご注意、ですね。

例を出すと、

『子連れ狼』なんか、子連れの刺客 という事じたい、現実性はないけれど、
それを物語のなかで、リアリティを感じさせ、成立させている。そうでなければ名作にならない。
「公儀介錯人」という役職なんか当時ないけれども、読者にはアル、リアルと感じさせる。

 私がこう言うと、ああ、面白い嘘をつけってことか、と単細胞に受け取る御仁は、リアリズム
だけにして、フィクションはやめた方がいいでしょうね。
 
 つまらないファンタジーなんかだと、書き手みずからが、自分は「嘘」を書いているとい
うツマラナイ無意識が反映してるから読者にはもっとツマラナクなるんだろうと思います。

 作品はファンタジーであっても、それが、読者には現実にならないとイケナイわけです。


と、いうこと、ただそれだけです。


 別の例で説明すると、例えば、


  (長庚作品の2)の方ですね、あれはリアル調ですが、
  (作品2)の中に、「アトランティス」という語を、仮に放り込んだら、(作品2)は、
  もう一気に台無しになるでしょ。

   ですが、もともと、アトランティス大陸のなかの、ある国のある場所の人たちの話、そこの
  家族のはなし、とすれば、「アトランティス」という語を用いても、作品2のリアリティは
  壊れないわけです。

   元々、(作品1)が、そのように書かれているべきだろうにな、と(私は)感じたりします。



ただ、それだけのことです。


 

[326]ハァモニィベル[2017 01/13 23:52]北村 守通
作品評は後日また。(二つとも私の印象は悪くはありませんでした)
以下は、作品評ではありません。
----------------------------

(作品の効果にご注意を)


    <歴史×ミステリ> 
から、
   ―→ アトランティス(例)

のような発想は、あまりおススメしません。

 ファンタジー/怪奇幻想/SF 

の、いずれの場合にも、
読者へのリアリティがキープできない場合は、
安易に「語句」を借用しない方が無難です。

(幻想がダメと言っているのではありません。
幻想にもリアリティが必要ということです)

**

 尚、ここでの「歴史」は、いわゆる「空想歴史」ではないので、混同されないよう
ご注意ください。

 それを、アリにしてしまうと、「46億年前、地球はアース様によって創られた」ことになってしまうし、
いつ、北極にある太古の氷からガメラが目覚めてしまうかわかりません。

 <歴史×ミステリ> ✕ alpha

の alpha を、幻想やSFにしても良い(なので「ガメラ」が出てきても良い)のですが、
それによって「歴史」の部分を破壊しないようお願いします。

***

 「アトランティス」という単語には、


かつて、プラトンが対話篇に書いたとか、大航海時代にもまだ本気で探されていた、といった「歴史」
的記号である面と、ファンタジーの中では実在の消えた大陸・国という記号の面が、両方あることに、
注意が必要です。


 ファンタジーとは比喩である、ということを考えて見て下さい。実体として扱う場合は歴史です。

その辺が捻れないようにお願いします。



  【まとめ】

1.「アース様」でも、「ガメラ」でも、必要ならば使っていいのですが、安易な借用導入をすると、
  (歴史)でなく、(空想歴史)になってしまいますから、ご注意を。

2. ファンタジー風で書く場合は、既存の「アース」や「ガメラ」でない、「アース」や「ガメラ」
  を登場させることをオススメします。


と言っても何方も来られない気もしますので
虚しいお願いですが、ぜひお気軽に、

〈テーマ〉に縛られつつも、コードを超える創造を、誰かがやった形をも超えて、創造していただけたら、
幸いです。



 

[322]ハァモニィベル[2017 01/13 03:50]
* >>321*企画

テーマ【歴史】の中における、
 プチテーマ【ミステリ】という 絞りこみ

というわけですね。(といってもまだ広いですが)
即ち、 
    歴史×ミステリ(×文学 とか ×詩 など自由)

つまり、
ここまでは、「歴史」を絡めた、作品や座談でしたが、
ここからは、「歴史」にも絡めつつ、「ミステリ」にも絡めた、作品や座談を。
と、いうことですね。

**
考えてみれば、蛾兆さんが、(この場所は、じつはこういう場所だったのでは)と、ラスコーに思いを馳せた
ように、ミステリになる要素というのは、既に多様な場所に潜んでいて、「歴史」と事情は変わりません。
つまり、日常から歴史が発掘できるように、ミステリも発掘できるわけです。

***
 「ミステリ小説」を取り上げてみても、必ず謎が解かれるか、といえば、、そうでないケースもあるわけです。
イギリス初の推理小説とされるコリンズの『月長石』に刺激された文豪ディケンズが連載を開始した『エドウィン・ド
ルードの謎』という作品は、作者の死によって未完のまま謎が残されました。

 同様に、レイモンド・チャンドラーも未完の作品を遺しています。こうした未完のミステリに他の作家が解決編を
書くケースもありますが、ご本家が書いたらそうなるか、という「謎」はやはり残るでしょう。

 また、『思考機械』のジャック・フットレルのように、作者と最後の作品が、タイタニック号と一緒に海に沈んでし
まった場合などは、謎部分どころか、失われた作品の内容丸ごと惜しまれる謎、と言えなくもありません。

 未完の謎を残した作品は日本にもあって、そのなかに、

 『美の悲劇』 という作品があります。 

 作者は、木々高太郎――昭和初期のミステリ作家(当時は探偵小説作家といった)で、
「探偵小説文学論」を唱えて、同業の甲賀三郎と論争した人です。
 この木々高太郎が、その持論を実証するために、昭和28年「宝石」誌に連載スタートしたのが、
上記作品でしたが、これは、作者は生存してましたが、結局、中絶のまま未完となりました。
 (やがて、松本清張『在る「小倉日記」伝』が登場し、ミステリ文学の果実へと繋がります)



 何も、ミステリに限らず、漱石『明暗』のように、未完の作品は、その後が「謎」と言えるわけですが、
そうした誰でもが感じる「謎」でなく、実は、空白部分があるのではないか、と鋭く発見する「謎」もあります。

 『源氏物語』。そこには、どうも 「桐壷」・・と・・「若紫」の、あいだ、に断絶がある。何か一巻、抜け落ち
ているのではないか。そして、それは、藤原定家が名のみ言及した、あの巻 「輝く日の宮」 ではないか。

 【アントールド・ストーリー】
 を発見することが、ミステリを発掘することになる、とも言えるでしょう。

 実際、この謎には、風巻景次郎の推理論考に示唆されて書かれた、紫式部が探偵役の小説( 森谷明子
『千年の黙(しじま)』)があります。



 他に、歴史×ミステリ というと、

 例えば、
 西鶴の『本朝桜陰比事』 という事件もの、
 や、
 いわゆる「大岡政談」 などがありますね。

 後者を読んでみると、
 科学家が探偵になる以前は、安吾の『不連続殺人事件』に通じるような
文学的洞察の探偵、いわば詩人が探偵だったんだな、と感じられて意外に面白い。


などと長々と書きましたが、折角の企画も
誰も来なければ、すぐ終了です。

もし迷い込んでもいいと謂う方は、

 今回のぷち企画で、しばし、
 

 身辺のアントールド・ストーリーを探しながら、
    詩人探偵になって遊んでみて下さい。



(それでは、長庚さんよろしく)
 

[320]ハァモニィベル[2017 01/11 21:24]りゅうのあくび
長庚さん エフェルと自由の女神について 有難う御座いました。
蛾兆さん ラスコーの壁画についての追記ほか、有難う御座いました。

さて、----------------------------
ここでは、いま、テーマを〈歴史〉ということにして、
とくに、ジャンルを問わない作品の投稿と、気軽な座談を
行っています。

歴史(個人史も含めて)に絡んだ話なら何でもOKです。


 また、作品の紹介もお待ちしています。

----------------------------

★〈歴史〉に絡んだ詩ということで、私からたとえば、

安西均 作 「実朝」 という作品を紹介してみます。

 「実朝」

その目は煙らない
その目は寂しい沖にとどく
遥かなる実存の小島へ
・・・・・・

と実朝の「目」で始まるこの詩は、
さらに、

その目はズームレンズのように見る
その目は鹹(にが)い永劫が
しなやかにうねり
割れ
砕け
裂け
散ってしまうところまで細かく見る

と、続いて

その目はいつも涙に磨かれている
その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる

とやはり「その目」をみつめ続け
そして、ラスト

だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。

で終わる詩です。

「実朝」というタイトルを、見事に昇華した作品で、
史実を使った部分が浮いていないどころか要になっているのが
さすがです。



建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積ったその日、
参拝した鶴ヶ岡八幡宮で、甥の公暁にって暗殺された
鎌倉幕府第四代将軍、源実朝は、そのとき28歳であった。

政治家というより文人肌であった実朝の
詠んだ歌、

   大海の磯もとどろに寄する波
     破れて砕けて裂けて散るかも

これが、先の詩「実朝」のモチーフの一つになっているのは
ご存知の通りです。



安西均(1918―94)の詩には、他に、

 炎昼記

死体
これは自動車運送事業運輸規程第二十八条十一
項に明記された物件である。夏も深まったある
昼さがりのこと私は一枚の汗まみれな古着のご
とく吊り革に垂れながらバスに揺られていた。
・・・〔略〕・・・
げんに今ここに並んでいる乗客たちの素知
らぬ顔こそタブーを冒し合っている証拠ではな
かろうか。彼らはめいめい見えざる死体を擁し
ているのではないか。それでなくてなぜあのよ
うに疲れたり上気したり美しく化粧して街に出
かけることがあろう。生きている者の世では誰
もが何ひとつ出かけた先の街で確実に目的や要
件や満足を得たためしはないのである。その不
安のために人びとは秘かに見知らぬ者の死体を
持ち運ぶのである。
・・・

というやはり退屈させない作品が、あります。




(みなさまも、何か良い作品があったら
ご紹介よろしくお願いします)

また、挑戦してみた作品、実験してみた作品など
思いついたら吉日ということで、
ぜひ、ご遠慮なく、記事に載せて頂きたいと
思います。

本テーマ内のプチ企画として、

 (歴史ぷち企画)

を投げていただくのも、大歓迎です。

(ではまた)

 

[316]ハァモニィベル[2017 01/10 22:49]
>>315(作品、by蛾兆さん)投稿感謝です。

書き出しのモノローグのところ、そこが、詩でないようでいて、
じつは、そこが、この作品の詩である部分だ、と感じました。

それは、そこから下はまずいという意味ではなく、それによって、
命題を含んでいながら、論証性が薄く展開されてゆくこの作品の
そこから下もすべて詩になったから、という意味で、この作品の
味の要はその書き出しの所にあります。



〈そこから下〉だけでは、微妙になったかも知れないのは、第四連
が弱いからです。
 「機能美」に関する部分が、このままだと、賛成派からも反対派
からも共感しにくいのではないかなあ、と思います。。
 エ氏の言う「機能美」は、おそらく、無駄のないシンプルな美しさ
ということで、それは、当時定番だった「装飾過剰」趣味に対置した
ものでしょうから。論点をズラして批判してるように見えます。

 1900年のパリ万博の時でさえ、実際は、アール・ヌーボーではなく、
装飾華美のクレーム・シャンティー様式というネオ・ロココ調が支配的
だったといいますから、鉄骨剥き出しは、許しがたいほど常識に反して
いたということなのでしょう。それは、逆に言えば、装飾過剰に関して
はどんなに異常でも疑いを持つことがなかった、ということでもあります。

 (当時のひとが、なのか、誰がなのかは不明ですが)
 論点をズラして批判している印象があると、全体の説得力に影響しま
すから、折角、ラストのところで、一歩踏み込んだところも、弱く感じ
てしまうように思い、惜しい気がしました。


(もう一つは、)
 二万五千年(前・後)の人が、「かの天才」、「誰か」として、語り手とは
別人として出てきますが、それらが、対象物をどう評価するか、の予測は語ら
れるものの、語り手自身は、いったい、ラスコーの壁画と、巨大建築物と、現
代詩フォーラムの、この三者の関係をどう見てるのか、どうも、しっくり伝わってき
ませんでした。(どう捉えていても、いいのですが、捉えている感じがしない、
ということです)


(最後、)
 「へんな記号」 と定義する感覚と、「詩だ」 と判断する感覚のところ。
この感覚が一致するとして、その場合、その点になにか、腑に落ちる表現
が欲しいような気がします。(理性でなく、感覚とか直観のレベルで、です)

 仮に、たとえば、
 〈へんな記号も詩である〉 という命題がイメージされてしまう可能性があるとしたら
その命題に対しての、〈どんな場合は詩でないか〉という説明が、作り出すイメージ
のなかに必要だと(わたしなら)考えます。

ま、「わかるのだけど」、と、「わかる」という言葉を使わずに、
「感じる」とした方が、よかったのかもしれません。(あくまで私の感覚です)

**

みなさん、力作を贈って下さり、喜びのあまり、
 色々細かいことを述べてしまいました。サービスし過ぎましたら
何卒、お許しの程、ひらに、ひらに。


 

[313]ハァモニィベル[2017 01/09 05:04]


 【エッフェル塔】について

 橋梁設計技師であったギュスターヴ・エッフェルという人は、
産業皇帝ナポレオン三世治下の「技師の時代」に出逢えた幸運児でした。
 1889年に開催される第四回パリ万博に向けたコンペでも、
当時の首相と組んで半ば予定されていたブールデの「太陽の塔」を降して、
彼の「三百メートルの塔」はみごとに選ばれます。

 大量の大理石と照明を使い工期のかかる「太陽の塔」より、鉄骨オンリーの
エッフェル塔のが、費用においても時間においてもコスパに優れていたから、
と言うことでした。

 さて、この鉄骨のカタマリが、

じつは、

 当時の「美」の感覚からみたら、異物も異物、
 そーとーズレたシロモノであったから、大事件でした。

パリにそぐわない、と、モーパッサンはじめ300人もの文化人がこのと反対署名を行います。
世紀末(19世紀の末)に入った頃のお話です。

 対してエッフェルは、「機能美」ということを主張・反論しましたが、言わば、それこそ、
まさに20世紀的な感覚ということになる(なっていく)ものでしょう。

 しかし、面白いことに、後日、サンドラールなどの若い詩人たちが、老境に達したエッフェル
のもとを訪ねるのですが、〈エッフェル塔〉の美しさを皆に讃えられると、何を冗談言ってる
んだと、最後まで本人が、全く本気にしなかったという逸話が残っていて、
エッフェル自身が、〈エッフェル塔〉のことを、(新世代の若者達が「美しい」と言うようには)
美しいとは思えなかったということです。(作者自身もまた旧時代に属していたようです)

 パリの名物は、かつての迷物。それは、今見れば、
 時代変化の象徴として〈歴史〉の中にも立っています。



 〈エッフェル塔〉を美しいと感じる新たな感性とともに、20世紀は始まったというわけです。


 19世紀までは、
「年年歳歳 花相似たり、歳歳年年 人同じからず」 という感覚そのままに、
自然は永劫回帰で、歴史は進歩してゆく、と思われていたようです

が、

 そうした19世紀の夢が、悪夢となって返ってきたのが20世紀でした。



 20世紀の前半は戦争の時代であり、その後半は、科学技術全盛の(便利なのに幸せでない)時代。
それにつづく現代、
追い詰められた精神は宗教の過激化となって噴出し、大自然もまた悲鳴を上げている。

 「自由」は、人間にとって最重要な価値である筈ですが、それも大衆化社会においては、自由になるほど
低俗化の度が増していくことは、オルデガの言うとおりの観もある。

 良くも悪くも時代は流れ、広がっていく・・・



〈エッフェル塔〉を観ながら、そんな事をあれこれと
考えてみるのも、また愉しからずや。


 

[312]ハァモニィベル[2017 01/07 22:49]水菜りゅうのあくび
>>311 蛾兆ボルカさん

 人知れず死んでいった切ない人たちの〈歴史〉というのも、ありますね。
その方が数はずっと多いに違いありません。
 遊女に関しては、「投げ込み寺」という名称そのものから、
その哀切さが滲んできます。
 医学のために、解剖実習の教材として文字通り身を捧げる「献体」というのがありますが、
その第一号(明治2=1869年)は、遊女でした。



【距離感】について

 例えば、自分のことの場合。体験したことは、距離感ゼロで書けそうですが、
じつは、そうはいかず、やはり「書く」という場合は、対象化するために、一定の距離を
置くことが必要になりますね。
 カルヴィーノという伊の作家が、ハーヴァードの学生を相手に、その辺をうまく伝えていますが、
氏曰く、実体験というのはゴルゴンの首のようなもので、鏡の盾にいったん映して見なければいけない、
もし、直に見てしまったら最後、重い石と化してしまい、まったく書くことができなくなるだろう、と。
 つまり、生々しい自分の痛みこそ、むしろ、距離を取らないと、適切な表現に固定できない、という
ことでしょう。
 ただ、他人のように距離をとったとしても、やはり、自分の事ですから、痛みも分かるし、事情も汲める
ものだから、距離をとりつつも手は離さないわけです。そのあたりに、程よい【距離感】が生まれる、と
思います。

 一方、他人ごと、というのは、元々遠距離にあるものですから、そのままだと、対象をショーケースの外から
眺めてるような語り手の目線が、読者に伝わります。ショーケースに並んだものには死んだ印象しかない。
多少なりとも、対象の事情を汲んだり、痛みを察してやる必要があるんじゃないだろうか、自分の事のように
手を離さないでいてやること、(それは理解力ということですけれども)それが、読者に伝わると、退屈はしない。

 と、そんな感じに(わたしは)感覚してます。

 現代アートを志向して、その辺を破調させるのも、戦略としてはあるでしょうが、そういうのは結局、ヘタな作品
と区別がつかないのではないでしょうか。多分、二十二世紀以降の読まれる古典にはならないでしょう。


(以上余談でした)

 

[310]ハァモニィベル[2017 01/07 20:32]水菜


女性というのは、歴史家ではないか、と思うことがありますね。

例えば、

彼氏や旦那さんの、ある行動の痕跡を見つけては、その欠片を繋いで、
ものすごい推理をめぐらす、のは天性のものでしょうし、風呂場の髪の毛
だとか、シャツに付いた匂いなど、遺跡発掘のプロなんじゃないか、と
思われるフシがあります。

私は独身なので、すべて想像で話してますが、

夫が帰宅すると、その日あったことを、止めどなく語る語り部でもある
という話は、よく聞きます。

また、記念日をはじめ、過去の事件はすべて、克明に記憶している、といいますから。
年号や日付がひとつ違っただけで、それはもう大変なことになるのだとか。

そう言った意味では、〈歴史>というテーマでは、女性に敵わないのかも知れませんね。



まあ、
 戦国時代をハードボイルドで描いたり、江戸時代の、幕府と各藩との
政治的駆け引きなんかを取り出すと、男性のが有利かも知れませんが、

 わたし的には、忍びの悲哀などが、詩にはしやすいような気もします。

エッフェル塔をパリジェンヌのくノ一が駆け上る話でも、
勿論、ここでは〈歴史>絡みということでOKです。


 

[308]ハァモニィベル[2017 01/07 02:39]水菜りゅうのあくび
* (前回の話から)

 全体の秩序のため「個」に犠牲を強いるのがムラ社会ですが、
どこまでもその中から出られなければ、美しい魂は、松陰のように
「忠義」を貫いたりして、歴史に命を捧げるよりないのかも知れない
なぁ、と思います。
 
 その社会(大きいもの~小さいもの迄ある)が、共同体化していると、
つまりムラ社会だと、どうしても、際立った「個」ほど、共同体の重圧に押し
潰されてしまいます。

 そして、個人は共同体と運命をともにしている状況に繰り込まれてしまい、
その共同体=コミュニティを守るために犠牲になるか、ともに滅びることになります。

 そうならない為には、アソシエーション(目的の為にある便宜的集団)をフルに活かして
柔軟に生きていくという具合に頭を切り替えた方がよいのですが、
どうも、日本人というのは、集団を作ると「ムラ社会」にしかならないようなんですね。

 だから、役に立つアソシエーションも、どこにあるのか、あんまり見当たらないわけです。

(かつて、成功した例に、薩長連合がありましたね。でも、これには、坂本龍馬というある意味めずらしい国際人というか、
それなりの人物・人材が必要でした)



『孤独な群衆』(Lonley Crowd 1950)という本を書いた、リースマンという社会学者によれば、
人間には、3つの類型があるといいます。

1つは、「伝統志向型」の人間で、
 自分の思いよりも、社会のこれまでのしきたり、伝統を重んじるタイプです。
 安政の大獄で吉田松陰を殺した井伊直弼は(桜田門外の変で殺されましたが)、このタイプかもしれません。
 時代の流れが読めなかったのか、立場上なのか、幕府の権威・威信を(かなり強引に)回復しようとした人です。

2つめは、「内部志向型」の人間で、
 自分の価値観に忠実に生きようとするタイプです。吉田松陰はこのタイプでしょうね。リースマンが想定したモデルは、
 新大陸に生きたピューリタンですから、松陰がアメリカに行きたがったのも頷ける気がします。

3つめは、(有名だからご存じだと思いますが)
 「他人志向型」の人間ですね。
 これは、
 自分自身がよくわからなくて、他人や、周囲を見回して、それに倣う人のことです。現代の消費社会の住人は、
 この手が多いわけでしょう。有名人がやってるから、みんながやってるから、わたしも・・・というタイプです。


新しいことが出来るのは、どのタイプか、
といえば、まあ、明らかなんですが、

以上3タイプの人口分布というか、存在比率を知りたいなあ、と思ったりするわけですね。統計はなさそうなので、
しかたないから、投稿サイトの作品群を見渡してみたらどうかな、と思ったりするわけです。
そうすると、上記3タイプの分布の仕方が、自然と見えてくるような気がします。


 

[307]ハァモニィベル[2017 01/06 21:50]水菜
>>306(作品.by 長庚さん)投稿感謝。

古文調で味をつけたのは、面白い力作だと感じました。
ここは、擬古文コンテストではないので、詩情そのものが変であったり、
皆無でなければ、私は基本的に好感をもちますが、この作品の場合、
現代女性が(歴史の人をめぐって)妄想している詩として、
擬古文の綻びも味として成立してるかもな、と思ったからです。
例えば、
ラストが、「歌ひぬ」「歌ひつ」「歌へり」などでなく、
「歌いました」である所を言っているのは、言うまでもありません。

* * *

吉田松陰が、
黒船密航(渡米)に失敗して、故郷の牢に入れらると、其処には明日をあきらめた囚人たちがいた。
彼らは、牢内でも全力で生きようとする松陰の姿を見、話をするうちに、やがて生きる意欲を取り戻す。
そこで、松陰は、たぶん娯楽も兼ねて、孟子の講義をはじめた。

経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり

この吉田松陰の『講孟剳記』(『講孟余話』)には、次のような箇所がある。


・・・謂(おも)へらく、「功業立たざれば国家に益なし」と。是大いに誤りなり。
「道を明かにして功を計らず、義を正して利を計らず」とこそ云へ、君に事(つか)へ
て遇はざる時は、諫死(かんし)するも可なり、幽囚するも可なり。飢餓するも可なり。
是等の事に遇へば、其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失はず、永く
後生の模範となり、必ず其の風(ふう)を観感(かんかん)して興起する者あり。遂に
は其の国風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚(すうしょう)する如くなるなり。
然れば、其の身に於て功業名誉なき如くなれども、千百歳へかけて其の忠たる、
豈(あに)挙げて数ふべけんや。是を大忠と云ふなり。

(私による大意)///
「功利的な成果のないものは、世間では無意味だ」と言う者がいるが、それは違う。
「功よりも道を。利よりも義を」とあるように、主君がもし、頭も性格も悪い小人ならば
諫めて死すもよし、牢に入れられるもよし、禄を剥がれて餓死するのだってかまわない。
もしもそんな境遇になれば、この身は功も名もないようだけれど、あるべき道を失わず、
実在した最高の模範となり、その姿に感動し、落込みから奮起する者たちがきっと出
てくるようになる。(そういう者達が多くつづくならば)、やがて節義を尊ぶ世の中になる。
したがって、この身一つは功も名もないようではあるけれど、じつは百年千年の長きにわたる
忠義であること、計り知れない。最大の忠といってよい。///


 「忠」というのは、この時代の公理(最上位の価値観)であるから、現代の我々にはピンとこないが、
功利をとって醜い生き方をするくらいなら、道義にかなった美しい生き方(散り方)をしたいという、
単に理想なだけでなく、それを実践した姿と、その心を(わたしは)立派だと思う。


 先の一節を、そのとき聴いた者達は、どうして松陰が牢内で、腐らずに、明るく全力で生きよう
としていたのかを知ったに違いない。そして、まさに松陰が身をもって実践してみせた日々の姿を
思い出し、撃たれたのではないかと妄想する。



安政六年十月、

 以下に出てくる「四人」というのは、桂小五郎、伊藤俊輔(博文)ほか
 の松陰の弟子たちのことだ。


回向院の西北方なる刀剣試験場そばの藁小屋より、一つの
四斗桶を取り来たりて曰く、これ吉田氏の屍(しかばね)なりと。

四人 環立して 蓋をひらけば、顔色なお生けるがごとく、髪みだれて
顔にかぶり、血ながれて淋漓(りんり)たり。かつ 体に寸衣なし。

四人その惨状を見て憤恨禁ずべからず。

髪をつかね、水をそそぎて血を洗い、また柄杓を取りて 首体を接せんとしたるに、
役人これを制して曰く、
重刑人の屍は他日検視あらんも測られず、接首のこと発覚せば余ら罰軽からず、
さいわいに推察を請うと

安政の大獄で処刑された松陰最期の、
小塚ッ原での惨状である ・・・という。


 

[305]ハァモニィベル[2017 01/05 21:43]水菜るるりらりゅうのあくび田中修子
>>304

それも勿論、本テーマにおける<歴史>ですね。

過去はそのときの今ですが、あきらかに過ぎ去った日は、埋もれたように今も生きています。



 

[304]田中修子[2017 01/05 21:11]水菜ハァモニィベルりゅうのあくびるるりら
1945、夏、わたしにつながる歴史
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=11348

これも歴史に入るかなぁ?
祖母がよく話してくれた光景です。

たとえばそのとき祖母が疎開せずに広島にいたら
原爆にあっていたかもですし
狙撃されていたら私はいなかったんだなと
小さい時から不思議な気持ちになっていました。

ありありとみえるような、自分が体験したような
そんな気持ちになります。
 

[301]ハァモニィベル[2017 01/05 15:48]水菜

うーん。吉田松陰は、「何となく」で話題として振られるには、
(私には)語る事が尽きない、大きな対象ですね。

松陰について、どこを切り取って語っても、他の幕末ビッグネームが出てきて
しまうというのも、収拾困難な要素で、いってみれば、<吉田松陰>じたいが、
ひとつの<テーマ>になってしまうのではないでしょうか。

なので、松陰については、何か個別的なエピソードが、出てきたら、
また、それに触発されて思い出したことなどを、書いてみたいかなとは思います。



長庚さんには、もしも吉田松陰が、自分の彼氏だったら、あるいは、先生だったら
もしくは、息子だったら、はたまた、同級生で隣の席に座っていたらどうか、・・・
そんなことを想像してみて女の本音を、逸話を交えて語っていただいたり、
そんな女性の立場で書いた詩を投げてくれれば嬉しいですね。

勿論、夫が孔子だったら、でも構いませんが。


ちなみに、星野哲郎 作詞の『吉田松陰』という歌があるみたいですね。
歌手は尾形大作だそうです。


 

[299]ハァモニィベル[2017 01/04 02:16]
〔文章をすこし補訂しました。1/4 13:00〕
----------------------------
>>298(作品.by蛾兆さん)投稿有難う御座いました。

ゲームを持ち出してきたところに評価を二分する面がありますが、
テーマに対するひとつの処理の工夫ではあるであろうと思います。



「野望」というのが一つのキーワードとして面白く感じました。辞書によれば、

野望(やぼう): 

  分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心。

とあります。
また、
「カリスマ」というのもここで一つのキーワードとして興味深く、意味は、

カリスマ(charisma) : 

  1.神からの天与の賜物。神より特別に授けられた才能であり、常人を超える
 資質を指していう。2.信服力

とあります。まあ、もう少しなめらかに、
   衆人が心服するほどの神がった資質と能力
とでもまとめてもよさそうです。

さて、

広く歴史を振り返ってみても、野望家というのは、カリスマを帯びた者をみつける
と、嫉妬し、恐れ、迫害する傾向があったりしますが、
その理由は、上掲の辞書の定義を比較すれば、一見して明らかなようです。




明治九年(1876)に、札幌農学校が設立されますが、そこへやって来た指導者、
ウイリアム・クラークは、例の台詞で有名ですね。
本当にそう言ったのか、幾つかの説があるようですが、その中のひとつが、
馬に乗り手をふりながら言ったという次の別れの言葉です。

Boys, be ambitious like this old man.
(青年諸君、いつも野心的でいたまえ。目の前のこのオジサンのように)


クラークはこのときだいたい五十歳くらいだったようですが、「大志」と訳され
た言葉は、「大望」とか「野心」と訳してもよく、日本語の「野心」という語には
(新しいことに挑戦していこうとする強い意気込み)という意味が含まれています。


カリスマは何歳(いくつ)になっても、野心的であろうとするものらしく、
歴史上のカリスマたちは確かに、皆、そういう歩みを見せているようです。
カリスマだから野心的であるのか、野心的であるからカリスマになるのか、・・・?

わたしなんかは、Boys にも、old man にも入りませんが、けっこう ambitious なんで
それが悩みの種だったりしますが(笑)、ambitiousであることは同時に、周囲を見て
いつも虚しさを覚えることでもあります。ですから、

あのセリフが、発したクラークに注目されるのをよそに、わたしはむしろ、クラークに
あのセリフを言わせた札幌農学校の生徒たちの眼の輝きの方を、想像したりします。



カリスマというのは、何歳(いくつ)になっても野心的であろうとするものなんだな、と
素直に感銘するとともに、

いったい野望家というのは、<大志>の代わりに、何を、抱き続けてるのだろうか
と、率直に疑問を感じたり・・・


・・・などなど、色々考えるところがありました。

最期に、

「資源」と「生産力」
ということですが、

 資源 ―→(   )―→生産力

のような、両者の中間にある機構が考えられるように思いました。
(  )に入るものが、
「カリスマのような大志」なのか、「野望のような戦略」なのかによって歴史も
大きく変わるのかもしれません。


 

[297]ハァモニィベル[2017 01/03 11:31]水菜りゅうのあくび


武田信玄の詩は、やっぱりタイトルは、「風林火山」でしょうか。

零戦とか、あの時代の素材は、余計なイメージが諸々付随してると思うので、わたしは使いにくいという感じを持ちますね。
それでも、吉田満の『戦艦大和の最期』なんかは、人の歴史として面白いと思います。
(私の「面白い」は、ファニーという意味ではないのは言うまでもありません)



信玄の詩にたいしては、謙信の詩もありそうですね。
そうすると
また、謙信からみた信玄という詩もありそうで、
しかし、
現代日本人が、例えば古代日本人の詩を書いたら、単なる借景詩にならないか、
など
色々面白いことはありそうです。



縄文や弥生の頃には、「日本人」は居なかったとも言われるので、
今回の<歴史>というテーマのもとでは、
遠く、日本人が倭人だったころまで思い出せるといいのですが。


 

[295]ハァモニィベル[2017 01/02 10:30]水菜りゅうのあくび
>>293(作品 by蛾兆さん)

「気球爆弾」への着目と、広島の折鶴の挿入。

提示される話題のチョイスがよいですね。予備知識のある人が
読んだときと、ない人が読んだ時では印象の変わる詩です。
なので少し改訂されたようですね。
当初、単なるダイジェストという平板さを感じましたが、書き手の目線が
だいぶ遠距離からであったのが、作者が二、三歩近づいた分よみやすくなったようです。



 大量のメールを送りつける悪辣な行為を「メール爆弾」と呼びますが、以前何かで読んだ
記事によると、広島へ内外から送られる千羽鶴は、その廃棄処理に一億円かかる、というのが
ありました。はたしてコストの計算が正しいのか不明ですが、贈る方の
贈った大量の善意が、贈られた方の側では大量のゴミであるとすれば悲喜劇です。

「気球爆弾(風船爆弾)」もまた、ヒロポンまで配られ作らされた乙女たちの主観を離れた
偏西風の彼方で、妊婦一人と5人の子どもを吹き飛ばすとは思わなかったでしょう。

悪意を善意になんとか変換し続けていくのが、天命をおびた政治家というものでしょうが、
その反対の、善意が悪意へ変換されることが多いようです。

振り返れば愚かだったと分かることが、前を見ている時には気づかない、というより
正義のように思い込んでいる。それが、人間の哀しさでもあり、いじらしさ でもある
のでしょう。



 

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