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生贄合評スレ (創作系)スレッドオペレーター:いとう
試験的に作ってみます。上手く回らなかったら消します。

やり方。
1.作者が合評して欲しい作品のURLを貼り付ける。合評開始。
2.誰でも好きなことを好きなように。基本的に何でもあり。
3.なんとなく場が収まったら、次の生贄を待つ(笑)。

注1
合評される作品の作者は、合評内容に対してどのような発言権も持ちません。
つまり、自分の作品に対する発言は禁止。最初にURLを晒すだけ。
作者が特定の発言に星を入れるのも禁止します。

注2
合評中は、新たな作品のURL貼り付けを認めません。
合評は1作品に対してのみ、行っていきます。

[70]合耕[2004 11/17 17:00]
そろそろ一段落したかなあということで。

枕元京平「天気を決める人」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=6159
 

[69]いとう[2004 11/16 12:03]合耕
浜崎あゆみが、以前、「私は消費されてもいい」と述べていたことがあって、
なんか、見直したことがある。
意思を以って消費の恐怖へ入っていく姿には、勇壮と悲壮が同居している。
もちろん、そこに意思があるならば。(そういう意味では田代さんと同意見)


解釈の不要な詩、あるいは解釈を提示しても意味がない詩があって、
これは、その類のものだと思われる。
作者としてはたぶん「解釈は人それぞれでいい。空気を読んで(感じて)欲しい」といった思いになるのか。
「黄金」「髪を長くした人」など隠喩はある程度機能しているけれど、それは本題/主題からは外れると思う。
(逆に言えば、これらの喩の立つ場所はあくまでも作者の中にあるため、
それを提示することがこの作品の本題ならば、独り善がりな詩と言わざるを得ない)


詩の空気はどこに立ち現れるか。
敢えて乱暴にまとめるなら、
それは読者に提示されるイメージ(の交錯、符号、流れ)にある。
(この詩の場合、前述の喩はそれを補助するものとして機能する)
ではそのイメージはどのように形成されるのか。
これも敢えて乱暴にまとめるなら、
イメージ形成の鍵は、言葉の選び方と置き方にある。
言葉が起律(←造語)しているか。詩の空気はそこに現れる。


ここで余談:
詩の書き方は、もちろん、それだけではないとも思ってます。
書き方はいろいろあって、それぞれにメソッドがあると思う。


本題に戻って、「とんぼ」で使用されている語句はどうだろう。
印象としては、やはり、弱い。
田代さんの言葉を借りるなら「筆致の力弱さ」が目立つ。
個人的には、詩には必ずしも筆致の力強さが必要だとは思っていないが、
作者の意識(という言い方は語弊を含むけれど)が
「空気を読んで(感じて)欲しい」という側面にあるとすれば、
その空気を形成するだけの起律性、
あるいは、その空気をより精緻に、
作者の持つ感覚とできるだけ合致させようとする努力(とその結果)が必要だと思う。
その目的/目標を含んでこの詩が在るのなら、それは単なる力不足となるだろうし、
それを含まず、別の思考によって在るのなら、
それは、作品への解釈の幅が広がる方向ではなく、
作品の印象がぼやける方向へ進んでいるようで、
思考スタンスの再確認が必要となるかもしれない。

もっと強く、シャープに。言葉に緊張感を。
「とんぼ」に足りない、あるいは必要な要素は、そこにあると思う。
(作品のイメージに緊張感を持たせるべきという意味ではなく)
 

[68]ふるる[2004 11/16 08:14]本木はじめ
また、印象です。

夕暮れ時。
トンボの目。

・・・だけです。
 

[67]石川和広[11/16 01:26]
作者がどこまで、読者の不自由を感じ取れるかとおっしゃるかたがいて、なるほど、と。たぶん、これは、稲村氏が半分?かな意図的に作品内の主体の消滅を強く押している。
このフレームが稲村氏。景色を選んで書いてるのが、稲村氏。
逆に、フレームがかっちりしている、その切取が読者を分かりにくい形で縛る。

もしかして、作者未詳で野晒しなら、なんだろーと気になるかも。景色を見ていたいし、定点でいたい、かなり頑固な書き手やし、タイトルから言葉の選びまでかなりかっちりしてはる。逆に几帳面すぎてつまんないと感じるのかも
 

[66]石川和広[11/16 01:10]
どうとでも取れるし、綺麗な絵葉書の詩みたいによめる。

それは確だ。

そして、多少の委ねすぎはあるとして、ただ、ここまで、はっきりしていて、反対にどうとでも読めて、てきとーに自由なのは、是非するべきかな?書き手をつまりは、主語を稲村氏に求めすぎで、それも勝手なんで、鑑賞して勝手に、解釈が稲村氏の狙いから外れても、だってポンと置いてある物に感じをつかめんかったら、ポイして良いかと思う。

稲村氏が不徹底だと僕が感じるのは、それでも消しされない感覚が作品に露頭してないかもという感じだな。それが注文
 

[64]田代深子[2004 11/16 00:08]クリ
 この際、解釈など問題ではない。もっと言うならこの詩に解釈な
ど不要だ。なぜならここに著されているのは適当に美しげな、感傷
的な言葉で切り抜かれた一光景にすぎない。ああきれいだね、で終
わってしまう類の、絵葉書のようなものではないか。
 これを絵画的と言うことはできるかもしれないが、だとするなら
ば問題はその筆致の力弱さとなるであろう。光景を切り取るとして、
用いられる言葉のなんとつまらなくありきたりなことだろう。どれ
ひとつとして一語が、それに表される対象とのせめぎ合いで迫って
くるものがない。
 稲村つぐは数多く4行詩を書いているが、その形式のしばりは緊
張感でなくルーティンワークしかもたらしていないように思える。
そこに言葉との格闘は見いだせない。同じ形式、同じ題材によって、
読者をもっと鮮やかな光景にさらす詩は書けるはずだというのに。
 耳触りのよい言葉を転がしているだけなら、それは消費物にしか
ならないということに、恐怖を感じないのだろうか。それともただ
心地よく書きたいだけなのだろうか。だとすれば、私はいらぬこと
を言ったものである。
 

[61]クリ[2004 11/15 20:30]
稲村さんの作品少し読ませていただきました。全部xxxなんですね〜。
ヒントありました。「ユトリロ」これですね。
僕はマックナイトが好きなんですが、共通点は、基本的に「人がいない」ということでしょうか。
伝達されるのは「切り取った風景」のみなんですね。
決してけなす意味ではなく「何かありそうで何もない」スライス・オブ・ライフというか…。
これは石川さんだったかな、ほぼ同様の意見でポイント入れてらっしゃったと思います。

しかし、ここからあとは、にいみやさんとほとんど同意見です。
作者が詩に込めた何かと、読者が抱く何かが決して同一になることはあり得ないのですが、詩人の努めは、
1. 読者のイメージをどれだけ膨らませられるか
2. 制約(文字数・視角のみ・音だけ…)の中でそれをどれだけ近づけられるか
という相反するものであって、
…と考える人たちにとっては、稲村さんの作風は(2.)を拒否している、ような気がするんですよ。
手がかりがほとんどない。イメージの広がりが、無限であってはいけない、と、これは僕の考えですが。
 

[59]合耕[2004 11/14 23:26]
僕はこれ、わりと明るめな詩だと思いました。
「恍惚」とか「緊張を伴う興奮」とか、そんな感じ。キラキラしてます。
黄金よりも闇よりも空よりも、自分が「勝ってる」と思える瞬間、のような。
自分の中がすごいことになっているので、周りのものは素早く遠くへ逃げ去るように感じられる、
というような気分を表してるってな塩梅でしょうか。
「空は/肩の上で走るばかり」ってあたりで特にそんなふうに思いました。

タイトルについては、詩に書かれてる内容についてのヒントみたいなものだとすると
ちょっと無粋であまりいい感じはしないので、
「とんぼを捕まえようと対峙したときの詩」みたいな意味で取っておこうかと思います。
 

[56]青色銀河団[2004 11/14 11:10]
解釈は本木はじめさんとほとんど一緒でした。ただ黄金は単純に夕日かなと思ってましたが。
それでこの詩は、全部が遠くに書かれていて、すごく淋しいです。「髪を長くした人」とより客観的に描写されてる女性もその表情はよくわからない。おそらく話者は画家の視線とおなじでこの風景のなかにはいない。だから眼前に広がる距離感、茫洋とした空間、手をのばしても何もつかめない空虚感が意識されて、すごく淋しい。
ただ僕の個人的な趣味からすると、タイトルの「とんぼ」にちょっと違和感を感じます。実際風景のなかでとんぼが飛んでいるのかもしれませんが、「とんぼ」という言葉の持つ郷愁を誘うやわらかい語感と詩のもつ雰囲気がちょっとそぐわないような気がしました。
 

[55]本木はじめ[2004 11/14 05:24]青色銀河団
一行目の、黄金はとんぼと思います。この一行は美しい情景描写であると共にここから先への案内役、
外から内へと入ってゆく為の機会、詩が生まれる入り口を表しているのでは。と。
すれちがう闇 は、夕暮れから夜に変わる頃、黄昏。あと、誰か、もしくは誰のなかにもある闇、病み。
髪を長くした人、黒髪と勝手に判断。前の行の闇とスムーズにくっついて、溶けるような読みやすさ。
しかも、今度は少し違う闇、誰のなかにでもあるあこがれや郷愁、喪失感みたいなものを喚起させてくれる。
空は が同じ行で一文字分開けてあることによって変調の心地よさを味わい、
すばやく 空は に視点、観点?を切り替えられ、あとは、その闇や病みやあこがれや郷愁、喪失感が、
自分のどこかではなく、またしても届かないどこかへ過ぎ去ってゆく。みたいな。

この詩は好きであります。はい。
 

[54]Monk[2004 11/14 04:25]本木はじめ
稲村さんの詩は、写真とか絵はがきに添えてみるともっとウケるかもしれない。
とらえる視点と、伝える言葉、ってやつだ。

夕暮れ終わり間際の電車に乗って。
腰掛けた俺は「お前」の背中越しに窓の外を眺める。
あの頃より髪をのばした「お前」
俺は声をかけることもせず、ただ揺られているだけ。
今、電車は鉄橋を渡った。

僕はこんなふうなのがいいな。
「お前」ってのは実際のお前でもいい、偶然見かけたお前。
投影でもいい。

似たような時間帯を感じることができれば読者は幸せなんじゃないのかな。
 

[53]クリ[2004 11/14 02:29]
ええと、この詩の曖昧さは読む人によって様々に解釈できるので、
「カスタマイズできる詩」というか。

>鉄塔へ隠れていく黄金
 鉄塔マニアっているんだよなー。そういえば「鉄塔 武蔵野線」っていう妙な映画があったなー。
でもありゃあ真夏だったなー。送電鉄塔のことじゃないのかな〜? インドにある錆びない鉄塔かな〜?
 「黄金」は、「おうごん」かなー、「こがね」かなー。
太陽かな、トンボかな、何かな〜。

>すれちがう闇に
 すれ違ったのは何かなー、ふたつの闇がすれ違ったのかな、それとも何かと僕(?)がすれ違ったところの闇かなー。
ひょっとして、僕が闇とすれ違ったのかなー。

>髪を長くした人が立っていて 空は
 「髪の長い人」ではないということは、何か意味がある。つまり、長くした理由があるんだな、きっと。うん。

>肩の上で走るばかり
 ほんというと「僕」らしき存在を匂わせるのはここだけ。「肩」が「僕の肩」であるなら、だけど。
でも前の行から続けて読むと、「髪を長くした人が立っていて 空は肩の上で走るばかり」だから、
きっと肩はその人の肩で、立ち尽くしているから、空が流れていくのかな?

…などと、イメージは無限の組み合わせ。
ただの読者ならば、この詩のみで云々しても全然構わないけれど、評するときにはそれはあんまり誉められたことじゃない。
残念ながら僕は稲村さんの詩を読んだことがないので、他のも読んでから、自分なりのパズルを完成することにします。
 

[52]たもつ[2004 11/14 00:49]本木はじめ合耕
「瞬間」なんだろうなあ、とふと思う。
「鉄塔へ隠れていく」「すれちがう」「はしる」などの言葉から時間の流れを追ってい
る感じもするけど。
いろいろなものが動いているのに、実は何も動いてない。
動いているのに「瞬間」を感じさせる。
 

[49]合耕[2004 11/10 23:10]
えーと、俺達は他とは違うちょっとした奴等だからあんなくだらない塔なんかに行かないぜ、
って感じに読めてちょっと感じ悪いな、と思いました。
それにしたってせめて塔のそばまで行ってから打ち崩してやればいいのに、
そばにもよらず説明もされずに倒されて塔ちょっと可哀相、とか。
重々しく出て来てタイトルにまでなってるわりに俺とお前を高めるためだけに塔がある感じがしちゃいまして、えーそれってあんまり気持ちよくない使い方だな、ということです。
 

[48]北野つづみ[2004 11/10 14:53]
こんにちは。今日のわたしは、すべての家事を投げやりたい、くら〜い気持ちなので、「塔」にはまっています。部分だけ、コメント。頂頭(ちょうず)という言葉は、流通しているようです。わたしの広辞苑には載っていなかったけれど、ネットでみたら、植物の説明で使われていました。知らなかった。根方も木のねもとのことだから、一本の木の頭からねもとまでということかな。で、この一本の木が撃ち崩されている、その力は、電気つまり落雷なのでしょう。バベルの塔が崩されたのも、たしか雷でした。撃つが打つでないのは、ある意志が感じられるように思います。アルミはアルミ箔のほうがいいのかな。アルミホイルって商標名?だったような気が・・・。ああ、わたしの頭で考えられるのはこれくらい。また、調べてみます。それでは、失礼します〜。
 

[47]石川和広[11/10 11:48]
ふるるさんの感想を読んで出会いとしても、作品は想像的に読めるかも知れないと感じました。
以前他のスレッドで、田代さんと少し言葉を交したので、その残像をひきずってるかも。
ただ想像的にも読めるけど、塔というと、どうしてもファロスをイメージしがちなんですね。
そして作と作者の関係にも繋がるかも知れないが、ファロスとしか読めない感じもする。するとこのファロスが幻と物の間をさ迷っている感じがし、だが塔とだけ名指され、読み手が補う部分が増えてしまう。これはまだ作者が位置を取れかねるところに塔を立てたのかなと
 

[46]ふるる[2004 11/10 10:57]
基本的に何でもあり。なので、また印象を・・・。

一人の男がいて、女と寝ている。
寝ているが、深く繋がることはなく、二人の関係は遠い。
が、終わった後で、男は少しだけ、相手の何かを手に入れたような気がする。
ほんの少しだけ、男は相手に近づく。
それは気のせいかもしれないが・・・。
 

[45]北野つづみ[2004 11/10 09:10]
佐々さんや石畑さんの読みをみて、なるほどとうなっています。塔から率塔婆を思い出したんだけれど、率塔婆の形は男性器ににてるかも。
ところで、初歩的な質問なのかもしれなくて、申し訳ないんですが、作者と、作品の関係について誰か教えてくださいませんか。つまり、音楽や絵画などだと、作者の名や性別が分からなくても作品を鑑賞することができると思うのですが、詩の場合には、作者が女性で、皮肉として、作中の語り手を「おれ」とした場合、作者の名前事体も作品の一部となるということになるでしょうか。最近、作品と作者の密着度が気になっているので・・。
合評にはあわないのかもしれませんが、どなたかよろしくお願いします。
 

[44]佐々宝砂[2004 11/10 05:35]
私は基本的に酷評したくない人なので、クリさんのように書けないだけかも。
 

[43]れつら[2004 11/10 03:13]
えっと、この詩を読み解きません(という宣言)。

なんかねー、読み解きませんって言っておいてなんなんだけど、
塔が男性器の隠喩だなーってのは感じらるるところ。
で、なんかねー、汚い。
なにが汚いって、男性に仮託しておいて、見えてくるのは女性の欲求だったりするし。
もうこれはスタンスの問題だけどね。
あんたが言いたいのはそこじゃないんじゃないのー、とか余計なかんぐりしてまうし。

手法も合ってないんじゃないかって思う、てか、嫌い。
男性に準拠してないフレームのような気がする。
そんなにか。そんなに男性を抑圧したいのか。って思った。

すべてに根拠はないが。
放言してみる。
 

[42]クリ[2004 11/10 01:53]
真っ先に連想したのは、たくさんのRPGやファンタジーでの象徴の「塔」
ブルース・リーの『死亡遊技』もそうですね。それからもちろん『指輪物語/ロード・オブ・ザ・リング』も。
それからマイナーなところで言えば福永武彦という作家の『塔』、続けてカフカの『城』(青色銀河団さんと同じです)
モノクロームに近い色調の、夜の映像。異形が跋扈する世界。

でも今回は、文法的な面で書こうかと思います。
僕も佐々さんと同様、改行の仕方がまず目にとまりましたが、印象は正反対です。
なんかぎこちないんです。この手法は使い尽くされているんですが、
「塔」については必然性を感じないんですよ。イメージの想起を途絶されるというか…。
佐々さんのいう「立ち止まり」が僕の場合は負に働いてしまうんですね。
もっとも「コケた」のが最後、
>塔はおのずと沈む
>ごとくゆらいでその響きもかすか
で、「沈む」と言っておいて、続けて「ごとく」
「沈まないのかよ!」とガクッと来ました。これは僕がイメージに重点を置いて読み解いていったからでしょうか??

それからこれまた年寄りの感想かもしれませんが、言葉の曖昧さが鼻につく。第三連の
>て低くいぶきおまえがうなる
ここ、字面的に読みにくいのは置いといて、「いぶき」を動詞として使っていますよね。「息吹」に動詞はないんですよね普通。
だから僕だけかも知れませんがとっても分かりにくかった。
それから「アルミ」。これは僕にとっては「アルミホイル」だと即座に「ウムウム」と言えるんですが…。
(微弱な電流とあの独特のギシギシ感=得も言われぬ不快感) こだわりすぎ?
さらに
>それは青の明かし空に切りたつ月へと電気を通し
ここは文法に則ると「それは青の明き空に」だと思います。日常だと「明き青の空に」でしょうか。日常じゃないからいいんですが。
さらに「青の明かし」が空にかかっているのか月にかかっているのか曖昧です。まあ日常的には空でしょうが。
致命傷は「それ」が何なのか理解が及ばないところでしょうか。

「頂頭」って言葉、あるんですか??? すいません、知りません。「頭頂」なら変換しますが…。
そして、「ゆび」と「指」の使い分けは僕のような年寄りにはひどく感嘆符なのです。
使い分けはもちろんいいですが、僕なら逆にしたかも知れない、などと。

いちばん立ち止まってしまったのが
>の傷にたえ
の行です。「たえ」が定まらないんです。
「堪え」「耐え」「絶え」のどれなのか分からないのです。逆に言うと、3つの想像を展開させうる、とも言えますが。

あと、「それきり響きは失せ」たのに、「その響きもかすか/に遠のく」とはどういうことか。異なる響きについて語られているのかな???

とてもとても疑問符ばかりわき出て、吟味できない作品でした。
とてもとても、他の方の意見が聞きたいです。なんか僕だけが、誰もが知っていて当然のことを知らないのかな、と不安です。
 

[41]石畑由紀子[2004 11/10 01:53]あとら北野つづみ
こんばんは。まだ感じたことの一部分しか言葉になりませんが、少しずつここに記してゆこうと思います。(本当に少しずつかも)(というか始めは読解でしかないかも)

『塔』についての解釈は佐々さんとほぼ同意見です。具象でいえば男性器。抽象でいえば欲情もしくは繁殖欲求(根方)からエクスタシー(頂頭)という過程を塔になぞらえているとも感じました。
それを受け、『月』と『空』はそれぞれ女性器であると捉えました。月(にくづき)に空と書いて『腔』、つまり腹の中、体内の空虚な部分。そこから『空』は子宮であることが想像できます。
> 空に切りたつ
と書かれている『月』は、つまり子宮への入り口と考えてよさそうです。
その空が作中で『明けそめ』、『明かし』、『明けやらず』と変化するさまを考える時、『塔』を通じて『おれ』と『おまえ』の心情、そして『傷』の意味も見えてくるのではないでしょうか。

互いに独立し一体にはなれない二人が生殖という手段で共通の遺伝子を産み出そうとする生物としての『おれ』の本能、繁殖を、しかし『おまえ』の何らかの意志によって拒まれる……、暗喩としてレンズを考えた時、それは避妊手段?
> ああ見てみろ
という促しには慟哭すら感じます。
繁殖以外の目的でもって性行為を持つのが人間だけの快楽として、けれどこの詩で描写されている性行為と『おれ』、もっといえば『空』として描かれている子宮には、快楽目的だけではない繁殖意志を強く感じます。
> ああ見てみろ空は明けやらずひとすじ
> の傷にたえ
は『おまえ』の傷というより、自身によって繁殖を拒まれた自身の子宮が負った傷、それを『おれ』が指し示しているように思えます。

(んん。本当に読解の試みだけで今日はまずここまで)
 

[40](1+1)/4[2004 11/10 01:52]
すごい。なんか私はこんなに書けない。と、おもったです。で、と、思ったことをまとめてみました。
かっこいい夜明け前の風だ、きぃんとした空だ、緊張の青だ。狼のようだ。そんな第一印象。
もうすこしよんで、詩を読んでるとき気になった単語がぽーんとでてくるのですが、今回のわたしは「跨る」と「おまえ」でした。
わたしの想像する「おれ」は革ジャンとか着た男で、「おまえ」は 二重のイメージで、狼のようなワイルドな生きものと おんな です(どんな女かはともかく、おんな です)。「塔」はたぶん、「おれ」とはライバルのようなもので、なにか象徴ですが、きっと「おまえ」の方がつよい。おまえ は 跨ろうと思えば 塔 にも 跨る ことができるんじゃないだろうか。この詩の世界の きいんとした青は「空」が 背景の色としてあるいは「塔」に、「うなだれた影たち」に落としているんだと思います。
おまえ の存在から「おれ」が一心に感じ取る無意識は この流れの一切を <動くな>と止めてくるし、つづく助詞をすらっと言わせない圧力を「おれ」にかけている。「塔」が発するのと同じような アルミを噛む響き は、ゆびにレンズを嵌められるとほとんど失せてしまう。百聞は一見にしかず、といわんばかりに嵌められ跨られておれの視界からもうもうと塔はゆらいでしまう。ものすごいかっこいい第一印象だったけど、わたしが思う「おれ」をこんな風に追うと、すこしへねへねな印象を受けました。視点の立脚者たる おれ にしてみると おまえ のことは お前 などとカッちり呼べないし、己のこの世界を 俺 といえるほど距離をおける模様ではないのだろうと思いました。
よくわかんなかったのが「空」でしたが、その冷えやかな未明の内にひとすじの月、傷をかかえていて、おれ と おまえ の金のレンズは嵌まってそこにあるけども、月であろうそれは傷でまだ光ってる。おそらく「空」はこの「傷」を見ろとは言ってないのだけど、「空」は「おれ」と「おまえ」と、それから「塔」とも関係ない処の一切の背景なのだろうと思って、それでなんだか涼しくてわたしの中に未明の風がきいんと吹きぬけていくんだ、と思いました。
 

[39]青色銀河団[2004 11/10 00:21]北野つづみ
この詩を読んだ印象から。
塔から連想したのは「最高の塔の歌」とか「バベルの塔」とか、ちょっと違うけど「城」とかでしたので、人間が夢想する理想郷のことかなと読みました。そしてそこは「うなだれた影たちが行く」ように誰もが盲目的に信じて目指している地点です。
だけども「おまえ」がいるから、「おれ」は立ち止まる。
この「おまえ」は(「低くいぶき」「うな」り「噛」み「蹲る」猛獣のイメージなのですが)「アルミを噛む」(口の中でアルミホイルを噛むあの嫌悪感)、「まぶたのうちからひき剥が」す自虐的ともいえる苦行から「ふやけたおれ」に「金のレンズ」を与える。
そしてそのレンズを通して見えるのは「塔」が「おのずと沈むごとく」遠のいて、目指すべき目標もない「ひとすじの傷にたえ」る空が広がる荒涼たる世界。
「おまえ」は「おれ」の分身なのでしょうか。自ら血を流してでも決して真実に目をつぶらない、そういうストイックな生き様を感じました。
 

[38]石川和広[11/09 20:30]
田代さんの作品について。
塔というのは、垂直性の比喩によく使われますね。今高見順を読んでいて樹木というのが出てくるが、ちゃんと直立する、まあ気を付け!つまり近代的な姿勢、マジメさをさすとかな。
少し読みにくさを持たせて立ち止まらせるのは読者に注意をうながすだけでなく作者の中にあるきちんと書くという書法に対する抵抗もあるなと。
また女性の書く俺が連れに塔に近付けないようにしているということは近代的な男性性に対する両義的な思いを表してるか?
空に傷があるのが好き。その裂目から開く視界が何か?次にも期待。
 

[37]汰介[2004 11/09 19:52]
即物的、ストレート真正面に見ると、サーッと通り過ぎてしまうんですが、
斜めに見るんだ、と意識して読むと、色合いが出てくるのかなと思いました。

>アルミを噛む響き
>そんな
>部分でおれたちは共振するばかり

この部分にある違和と言うか、
「違和の共有の確認」とでもいうべきものをを訴えているのかな、とも思いました。

そうすると何故か私には、空の大気が色濃く感じとる事が出来ますね。
ひょっとすると「アルミ」に限らず、何処に違和を感じるかによって、
そこを持ち上げてみる事によって、見えてくる風景が変わってくるような、
詩なのかもしれないと思いました。
 

[36]佐々宝砂[2004 11/09 17:08]あとら合耕
じゃあ、なんとなく、なにげなくてけとーにやります。放置プレイ好きなんだけど(w

まず目をひいたのは改行の工夫です。普通なら行末に置く助詞(「が」とか「て」とか)を行頭にもってゆくことによって、読者をいちいち立ち止まらせる。うざったいといえばうざったいし好みは別れるかもしれないけれど、私は好きです。流れるように読んではいけないのだ、もっと立ち止まりながら読め、と読者に示している改行ではないかと思います。

次にあれっと思うのは、一人称が「おれ」であること。作者が女性で、オトコっぽい詩を書く場合、「ぼく」「僕」を一人称に選ぶことが多いように思われます(私個人は「俺」も「僕」も使います)。この詩の一人称は、なんで「おれ」なのか。「俺」とか「ボク」ではいけないのか。やっぱり、いけないように思います。全然関係ないですが、私は自分を「おれ」「俺」と呼ぶ男が好きです。「ぼく」なんて、あなた、字面からして「しもべ」じゃあないですか。この詩の一人称が「おれ」であって「僕」ではいけないその理由のひとつは、この詩の語り手が自律した人間であるからのように思います。で、しかもタイトルが「塔」なわけでして、フロイトさん的な読み方をしてもユングさん的な読み方をしても、「塔」が示すものはずばりあれですね、男性器。ないし、萩原朔太郎の言葉「詩は、日常に対し垂直に屹立する。」を思い出させます。

「おれだけならば」塔にゆくことが可能、なのかもしれないけれど、「おまえ」がいます。おまえは「塔」にゆくことをとめているようです。「アルミを噛む響き」は、お互いに傷付け合っている関係を私に思い起こさせます。「おまえ」は、「おれ」の「ふやけたゆび」にレンズをはめることすらします。そのレンズが、まるで、手錠のようなステディ・リングでもあるかのように。そして空は傷にも耐え、おそらくは塔すらも飲み込みます。

かほどにオトコっぽい詩なのですが、私は、この詩を去勢の詩と読みました。悲しくて痛い詩なのかもしれないけれども、決意を秘めた詩であるようにも思いました。ぶっちゃけ言えば、「けだもの」よりずっと好きです。
 

[34]北野つづみ[2004 11/09 10:08]
こんにちは。好きなように・・・ということですので、思いつくままさらっと。
こういう詩は好きです。塔は墓のことかなと思ったり。
でも意味を探すよりも、全体の雰囲気を楽しみたいと思いました。
失礼しました〜。
 

[33]田代深子[2004 11/08 01:18]
そろそろ一段落と勝手に決める
合評願います

田代深子「塔」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=15582
 

[32]石川和広[2004 11/07 20:01]
気持ちは、わかるのですが、いとうさんの他の作品をあげて、それと比較検討するのは、
なんとなく、ポンとおかれた物を批評していく感じとちがうので、ちょっと変だなあと思いました。それと、感覚批評から始めるときに、ぼくもやりがちなんだけど、人の言葉を
引用する仕方がまずいと引用されたところの言葉も、たくさんの解釈を持つので、自分の
云いたいこととずれてしまうように思えます。

好きなことを云うといっても、作品を採点するとしたら難しいよ、マイナスとかプラスとかを、つまり相対尺度を、部分部分に適用するのは分かる気がするけど、決定的倫理的なところで、プラスマイナスを持ってくると、なんか批評するものがもっている倫理が安く見えてしまいとても残念です。

ぼくの批評は前書いたところとあまり変わっていないです
 

[28]佐々宝砂[2004 11/05 02:59]
好みではないうえに、理解しがたく、批評する気力が湧かなかった詩なのですが、みなさんの意見を面白く読みました。納得いったと思う意見には☆をいれてみました。私に「けだもの」という詩に対してできることは、それくらいです。
 

[27]クリ[2004 11/05 02:50]佐々宝砂
>>26
「けだもの」擁護では決してないのですが、早坂さんの文章がわかりにくくて…。
#なんだか分からないことが最近多くて。こんなときは自分がどんどん「一般」から乖離していくような不安を覚える。---独り言です。

それでも敢えて反論めいたことを挙げると…。

僕はこの詩からさほど「マイナスイメージ」は受けられない。とくに「よだれたらして」「爪」のどこがマイナスなのかわからん。
それはそうだ、だって「マイナスイメージ」はマイナス指向の読者が抱くだけだからね。それがいけないとは言わないです。
解せないのは「マイナスよりですよ、これ」という部分。僕にはほんの少しですが、プラスよりです。

早坂さんの「名付けの自家(です)撞着」の前後が理解が及ばない。これは「意味が取れない」ということです。
言語や思考にとって自家撞着は、必然だと思うんです。避けられない。これを排除すれば何も許容されなくなる。
「この文章は誤りである」という有名なテクストを排除すべきならば、「この文章は正しい」も許されなくなり、
「私が思うことは正しい」もダメ、「私はこう思う」もダメ。コミュニケーション・ブレークダウン。
>人生訓に堕している。
僕もちょっとだけそう感じます。が、そこに至る論理の過程が分かりません。

それから、「名付けようとする過程」も問題ではありますが、「名付けられた結果」も重要です。
特に他との意志疎通において、名付けられた結果=つまり名前は重要です。つまり---
「赤」について議論するとき、大抵は「赤」の定義をせずに始まるんです。それでも議論は成立する。
ある人は「赤は燃えているイメージ」と思っているし、ある人は「赤は血の色」と思っている。
またある人は「赤は危険」、「赤は愛」、「赤はニンジン」と思っている。それでもいいんですが…、
罪は、「自分以外のすべてにとっても赤はニンジンである」と強要することです。
そして、「赤とは何か?」という自分なりの仮定の微調整=フィードバックを拒否することです。
Aさんが「あいつは、けだものだもの…」と考えていることを、Bさんは「あの方は、くだものだもの」と考えているかも知れません。
さらにAさんは赤が大好きなのに、Bさんは大嫌いかも知れません。
ああ、「名付けることの罪」というより「名付けることの功罪」と言ったほうが普遍的でしょう。
名付けなければコミュニケートできないし、名付ければ根本において他から乖離する。
そこまで考慮して初めて、「名付けようとする過程/仮定」が際立ってくる。
いわば「コモンセンス」の絶え間ない研磨です。言い換えれば「常に変わっていこうとする姿勢=自己修正=成長」です。
余談ですが、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ」というときの原語の意は、「心を回しなさい」です。
「改心」ではなく、「回心」です。つまり、いつもいつも視点をずらして見るようにしなさい、ということです。
 このタマネギはどんなに剥いても剥き終わらないのです(The Beatles : Glass Onion)

>目をあわせないわりには傷ついたといっているのだが
ここは早坂さん、文脈を読み誤っていると思います。目を合わせようとしないのはけだものではない。
「アンチ・キリスト」になぞらえるならば、「アンチ・けだもの」です。僕の意見に則れば、「ひと」です。
>見るというのは見ようとすることでもあるが
これは同意できません。
「見づらい」は文法的に誤りです。「見にくい」は正しい。「つらい」は意志が入り、「にくい」は入らない。
>見えたというのは結果でしかねーよ
ここも何を言わんとしているのか、僕には理解が及びません。「だから?」という感じ。ああ、反論じゃないですよ。

とても引っ掛かっている結び。
>それはやっぱりつまらない
始めや、中途でそう述べるのは、一向に構わないし、僕も「つまらない」のですが(いとうさん、許してね)、
分析の結として「つまらない」と言うのは、正しくないのではと思います。

「赤は、つまらん」と言ってしまったら、思考停止してしまうのです。
 

[24]クリ[2004 11/04 02:52]佐々宝砂青色銀河団たもつ
僕の印象はたもつさんと非常に似ています。というか僕が書くときもこのテーマで書くことが多いし。
まだこちらには投稿していませんが「名付けけることの罪」というエッセイがベースになっています。
僕にとっては、「けだもの」は、けだものについては語っているはずがないのです。
いとうさんにとても失礼なんですが、この詩を、そう、たとえば「先週までのあらすじ」のように伝えるとすれば、
 「人はよく見もせずにかってに名付けて決めつける」
となります。
たもつさんが引用した作品のほかに、「こときり」があります。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=14735

#それが僕の詩の全部だ、つまり僕は
#不可視(君らにとっての不可視)を敷写(しきうつし)するわけだ。


つまりいとうさんは文字でもってけだものを書き、文字の隙間でひとを描いていると思います。
ほら、見方によっては花瓶にも向かい合った顔にもみえる、あのだまし絵です。
坂口安吾は、「余計なところで遊ぶな」と言っただけだと思います。レトリックを否定したわけではない。
なんせこの「だまし絵」は面白いですから。花瓶しか見えない人もいれば、二つの顔しか見えない人もいる。両方見る人もいる。
要は「見えた!/eureka!」ときの、快感ですよ。

あと思いつくこといくつか。
「けだもの」で思い起こすのは、黙示録の「獣」ですね。叙述の方法はここから取ったのかな、と。
そして当然アメリカとイラクですかね。いとうさんがそこまで完全に意識していたかどうかは分かりませんが、想起する人は多いでしょ。
目を合わせもせずにいきなり傷つけたし。
それからもうひとつ、いとうさんの詩。「動物園」
(http://homepage3.nifty.com/prayer/ で読んでね)
これは恐れ多くも英訳させていただく機会があったので覚えているのですが、これもヒントかな、と。
最後。いとうさんがなぜ「けだもの」を未詩にしたか。非常に簡単です。
完成していないからです。詩には起承転結が必要、という気は毛頭ありませんが、
この詩には言うなれば「結」がないんです。最初から書く気はない、とも見受けられます。
「あんたが書け」と、いとうさんは言っているようです。
 

[19]たもつ[2004 11/03 08:32]青色銀河団佐々宝砂
こんにちは。ちょっと参加。
僕は基本的にいとうさんの詩は二路線あると思ってる。
一つは
「つみうみ」と「ハピネス」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=3712
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=138
にある「名前」。
そしてもう一つは「サイレント、サイレント、サイレント」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=8598
残念ながら自分はまだキーワードを拾いきれてないけど。
この二つの路線はいつの日か明確な形で僕らの前に示されると思ってる。
それは理解できるとかできないとかの問題じゃなくて。
いついかなる時でも名前をつけることができるのは人間だということ。
それは人間だけがもちえる特権であり、それは人間が人間であることの罪そのものだと
思う。
まあ、それすらも美しい誤解かもしれない。人間には知ることのできない名前が実はた
くさんあるのかもしれない。
と、いうわけで、この「けだもの」は先述した二路線が融合を始めていることの足跡な
のかもしれないなあ、なんて。まだ明確に提示できてないから「未詩・独白」。
二路線というのは勝手な僕の思い込みで、いとうさんの中では明確な一本の線かもしれ
ませんが。
 

[17]クローバー[2004 11/03 00:59]サツキ
けだものなのは何故なのか。そればっかり気になっている。
けものじゃだめなのか。ダメだ。けものは人間じゃない。けだものは人間のことだ。

涎は格好か。臭いは気配か雰囲気か。
酔っ払いのおっさんでもいいが。香水つけすぎたおばさんでも。もちろん自分自身でも。
しかし、お前らおかしいぞ(けだものだぞ)、それを言う人間がいない。

守るために殺すのも、人間だ。戦争のことか。
けものは、食うために殺すし、遊ぶためにも殺す、まあ、結局食べるかなんかするが。
ずいぶんひねた読み方だが、こいつは戦争の詩、で、守るために戦う(殺す)が
お前らけだものだぞ(おかしいぞ)、と言う人間がいない。言われないから言葉を知らないのだ。
とか、そんなわけないか。
 

[15]石川和広[2004 11/02 23:08]佐々宝砂
ちょっと失礼。
すごく、手短に言うと、けだものっていえるお方は何者だ?と読めるだわさ。
でも、そこで少し待つのかも、僕は。
これは書き手の問題というより、
表現の空間を作ろうとするとき、はまる罠にとらわれながら書いている作者の
もがきを「けだもの」と読んだ方がええかなと思う。

純粋観察者でもなく、他者でもなく自己言及の詩やと思うな。

これ別に、いとうさんが書く必要はないねんけど、つまり、固有性を
作品は持ってないかも。カフカみたいに
いや待てよ。このレベルで「けだもの」って書いていいのかな
これは、辛いものを書いてるという意識が書かせたもので
たぶん、作者固有のと意識しているところの、自己を
作者が、アレゴリカルに書こうとして、でも、これ一般の
言葉に流通しますでしょみたいに書いたら、ぼくもよくあるねんけど
ひとり合点やったんやなという淋しさを先取りして書いたら
確かに、虚構作品の中に、何者にもなれない「けだもの」というコト
が表れてきたんやと思う。

失敗の成功は失敗なのだみたいな。
なんちゃってと付け加える書き手が見えるけども
書き手の「なんちゃって」は真剣だ。
この感じ芥川のフェイクな感じに似てるんちゃうかな
かなり中途半端も超ド級な苦しさや。
まさに檻の中の「けだもの」

なんや、うまくできてるやん話としては。
かっこええ
でも微妙に、キライな作品かも。ここ自由にゆうて、いいねんな?
 

[14]斗宿[2004 11/02 22:30]
>>12
では、もっと直感的に。

この作品が「けだもの」という非具象存在の特徴列挙ではなく
存在そのものを消化し、表そうと試みているなら
その視点は無用に多層化されすぎていると感じる。
けだものの視線、至極人間的な視線と、突き放したある種神的な視線の同居。

複数個定義された視線が平行に存在している瞬間もあれば、
直列に存在している瞬間もあり、それらは一意に定まることがない。
けだもの、人間、神はそれぞれまったく異なる階層(ステージ)に
存在しているものゆえに、それらが混在した世界を包括しようとするなら
曼荼羅における大日如来の位置に立つしかないのであろうが
それは書き手にとっても読み手にとっても非常に困難であり
達成されているとは言いがたいであろう。

そして、意図してなのか、そうでないのか私には判別しかねるが、
作者の目は観察者のそれであるように見受けられる。
けだものに肉薄していくことがない。
故に、痛みや孤独といったけだものの体温が言葉としては伝わってくるが
感覚的なところで共振を得ることができないように感じる。

文体や表現技巧は高いレベルに仕上がっていると思うのだが、
無駄なものを排除しようとしすぎて削るべきではない部分までそぎ落とされ、
色艶が褪せてしまった感が否めない。

と、かなりな大口を叩いてみました。
言いたい放題ですね、申し訳ない。
的外れだと思われた方は、思い切り酷評し返してくださると嬉しいです。
どうぞ生贄にしてください。
と、わざわざいうのも変かもしれませんが……。

#酷評をした人が無意味に非難されるような場になって、このスレッドが立ち消えるようなことにならないことを私は祈っています。>田代さん
 

[13]田代深子[2004 11/02 01:35]佐々宝砂
 傷ついた孤独な「けだもの」というロマン主義的なモチーフを、終始一貫して裏切らな
いスタイルは、読者を安心させるがつまらないものでもある。ただ、前半に見られる「け
だもの」の具体的な描写は、むしろ「けだもの」の具象化をしりぞけるという意味で、い
くらかこの作品に特色を与えていると言えるだろう。
 「けだもの」の死や殺すことについての言葉には、さすがにもう少し書きようがあるだ
ろうとつっこみたい。また結びのポイントとして「けだもの」が自らを知らないというこ
とをもちだされたとき、この作品における「視線」の不安定さが露呈するのだが(誰が
「けだもの」を見て語るのか、「けだもの」のいる場所はどこなのか、語り手はどこにい
るのか、語り手が「けだもの」を確信する理由は何なのか…など)、この不安定さの露呈
が必ずしも魅力的な文体に生かされていないのが残念だ。

 以上、傷ついた孤独なけだものは、祝祭のはじまりの生贄にぴったりだからだよね、と
酷評をにやにやしながら書いてみました。


#でもむしろ、ここでこういうことを書くやつのほうが、生贄にされる可能性は高い気もするよ>いとうさん
 

[11]青色銀河団[2004 11/01 23:49]木葉 揺
私も好き勝手な事を言ってみたいと思います。
この詩のなかで けだもの という言葉はたぶん「けだもの」と言う風に
全部見えないカッコつきで使われているのではないでしょうか。
そして色々な修飾は「けだもの」を説明しているのではなく、むしろ
「けだもの」という言葉から全て演繹されてきたもののような気がします。
あれは「けだもの」だ、だから〜〜なんだと言う具合に。
いとうさんの書かれる詩のいくつかは「名付ける」とか「呼ぶ」という
行為に対するある種の罪悪感が感じられる気がします。
これは勝手な憶測なんですが、いとうさんの意識の中で、言葉を使う事で
失われてしまう、未分化の認識とでもいうものに憧憬があるのでは
ないでしょうか。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」っていう。
 

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