詩の携帯性
佐々宝砂

正直な話、私は、もう、どこかから活字の詩集を出したり、詩の賞を狙ったり、ということをやる気がなくなった。もちろん、どこぞが、お願い本だして、とか、お願い賞もらって、と言ってきたら、やぶさかではない(笑 だけど自腹切ってやる気はもうほとんどねー。めんどくせー。

小説でできることは詩でもできる。つーのをコンセプトに、私は数年前からやってきた。SF、ホラー、恋愛小説、時代小説、歴史小説、妖怪小説、政治小説、経済小説、児童文学、実験小説、思弁小説、その手のものなら詩でできる。ミステリの再現だけは難しいような気がしたが、謎を提示して逃げちゃえばいいのだ。解決編なし。ちっとずるい気もするが、そういうのもありでしょ。カーのミステリよりマシじゃ(こんなこと書くとミステリファンが怒るぞ)。

しかし、ショートショートを書くのが採算合わない以上に、物語詩を書くのは採算に合わない。詩はもともと採算に合わないという話はこっちにおいてね。物語詩ってのは手間がかかるのだ。ものにもよるが、キャラ設定してプロット組み立ててストーリー考えて、語り手考えて(語り手が何を語り何を語らずどこでウソをつくかも考慮し)、時代設定が現代じゃない場合は時代考証も調べて、舞台が外国の場合はその手の考証も調べて、考証調べるのに英語の本まで参照したりして、ディテールに矛盾がないか点検して、あーほんま面倒なのよ。もちろん小説よりは手間がかからない。でもね、「私の詩は排泄物」とか「泥吐いてみた」とかいう人に比べたら、手間の量は膨大です。

別に泥吐く人が悪いとゆーわけではない。私かて泥くらい吐く。泥詩もゲロ詩も吐く。しかし手間かけた私の詩とそうでない私のゲロ詩と、ポイントが同じだったりすると、いや同じならまだいいのだ、泥ゲロ詩のほーがポイント高かったりすると、めげる。私かてめげる。とゆーかしょっちゅうめげる。ヒトサマと比べてめげるのではなく、自分の手間暇思い出してめげる。

それで物語詩を書くのがいやになったかというとそうでもない。私は心底エピック(物語詩・譚詩)が好きなのだ。より正しく言えば、コンパクトな・携帯性のある・物語が好きなのだ。ショートショートも超短編も好きだが、俳句ほど短い物語はない。Tシャツに書けるのはもちろんだし、記憶してとっとくこともできる。記憶なら一生持ち歩ける。若い頃に覚えたなら、呆けたって忘れないでいられる。

私にとって詩とは、持ち運び可能な物語、なのだ。あなたにとっての詩がそうじゃないのは当然だ。私みたいに考えて詩を書く人はあんまりいない。全然いないとは言わないけど。

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で、問題は、これから私はどうするか、なのだった。いまや映画だって持ち歩ける時代である。RPGという物語も持ち歩ける。はてさて、こんな時代に、私の考える詩の特異性=携帯性をどこまで活用できるか? という文章を携帯して携帯で読んでる人もいるんだよなあ、今っていう時代は。

「詩人類 T-shouts!」 http://tshouts.exblog.jp/
 は、詩の携帯性を活用したひとつの解答ではある。

2006.9.20(初出ミクシイ)


散文(批評随筆小説等) 詩の携帯性 Copyright 佐々宝砂 2006-12-30 17:17:09
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