ツッコミキャラは耐えまくる。−仲仲治さんに
佐々宝砂

これだけ名指しされたらレス嫌いの私ですらレスせざるを得ないなと思い、仲仲治さんの散文を古いのから連続して読んだ。必死に読んだ。しかし半分も意味がわからない。私があほーなのか、それとも書き手の仲仲治さんが「理解されなくてもいい」と思って書いているからなのか、それともその両方か、理由は定かでないが、ともかく意味がわかんねえ。すまない。申し訳ない。仲仲治さんに謝る。素直にわからないことはわからない。多少落ち込んだが、それは自分の文章力と理解力のなさにめげたからであって、誰にも責任はない。ついでに言っておけば、もう何ら落ち込んではいない。むしろ元気だ。・・・というように個人宛に書くことが私はとっても苦手なのだけれど、やむをえないときもある。

私は気分を害してないし、仲仲治さんを揶揄する気も毛頭ない。ただ、私はどう転んでもツッコミキャラである。ツッコミどころのあるものを見聞きすると、どうしても突っ込まずにいられない。失礼な物言いだとは思うものの、言わせてください、ごめんなさい、仲仲治さん、あなたの文章は、本当に、ツッコミどころ満載、なんです・・・どこからツッコミをいれたらいいか、悩ましくなるくらいなんです・・・と書いても、これでも、私は、まだ仲仲治さんを揶揄してはいない。実に素直に自分の気持ちを書いただけだ。みなさん、おわかりだろうか、素直に自分の気持ちを書いてはいけないのだ。そんなキケンなことをしてはいけないのだ。特に、私のようなツッコミキャラは思うままを書いちゃいけない。自粛せねばならんのである。

しかし、自粛しつつも、重要なことだけは書かねばならぬ。今回私にとってもっとも重要なことは、作者と主人公と話者のことだ。私は、「繊細で心優しい、詩人かもしれないみなさんへ」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97758のなかで、「作者イコール詩の話者ではありません」と書いた。仲仲治さんは「関係性以外は嘘、かも知れない」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97923のなかで、『詩において「作者=主人公」なのかどうか』と書いた。ここに非常に重大な誤解がある。もう単純に単語が違う。私は、「作者=話者ではない」と言ったのであり「作者=主人公ではない」とは言っていない。「話者=主人公」とは限らない、ということを前提に私は話していたのだが、どうもそのあたりから説明しなくてはならないようだね。


私がここで言う話者とは、語り手のことだ。一人称で書かれている場合、「話者=主人公」であると考えられがちだが、例外も多い。これは小説や詩に限らず舞台にも言えることであり、物語の背景を解説する語り手、歌舞伎でいうところの狂言回しは、おおむね主役ではない。とりわけ古典的な叙事詩において「話者=主人公」は全くあり得ない。主人公が一人称で主観的なことを語るようになったのは、近代以降の話である。

しかし、近代以降の一人称小説であっても、「話者=主人公」とは限らない。私にもそういうところがあるが、主人公に語らせることを苦手とする作家がいる。SF作家なのでそうメジャーではないが、梶尾真治がまさに好例である。梶尾の出世作「美亜へ贈る真珠」の主人公はタイトルにある通り美亜という女性、しかし物語の語り手は美亜やその恋愛の相手ではなく、彼らを傍観している、物語の外にある人間だ。なぜ美亜やその恋人に語らせないのかって?あーた、そんなこと訊くなよ、野暮だね、照れくさいからに決まってるじゃないかw というのが真実かどうか私にはわからない。私は梶尾真治じゃないからね。でも、ま、たぶん、梶尾真治は照れ屋だと思う。私が照れ屋であるのと同程度には。非常にどうでもいい話だが、私は恥ずかしがってる人を見ると恥ずかしくてたまらん。梶尾真治のある種の小説も恥ずかしくてたまらん。太宰治も恥ずかしくてたまらん。恥ずかしくてたまらんからこの話はやめて、えーと。

とにかく話者と主人公と作者は同じとは限らん。むろん、同じでもいいけど。私がこのことにこだわるのは、私個人が誤解されたくないからではなく(それもちょっとはあるが)、文学あるいは芸術の常識としてこのくらいのことはわきまえててほしいなと願うからだ。本当に当たり前の話で、特別むずかしい話をしてるわけでもないと思うのだが、なぜか何度も繰り返し言い続けている。いい加減飽きた。というわけで次の話にうつる。


仲仲治さんは「関係性以外は嘘、かも知れない」で以下のように書いている。
私の考える批評は、私にとっての詩を相手の詩に押し付けることではなく、作者にとっての詩が、作者の思っているように(思惑通りに)書かれているかが重要で、もう一つ、詩に対して新しい読み方を提示する目的の為の手段でしかありません。
 新しい読み方が普遍になったとしたら、その批評は優れている、と私は考えています。

私にとっても、批評は、私にとっての詩を相手の詩に押し付けることではない。しかし、作者の思惑通りに書かれているかだけが重視することでもない。作者の思惑がどこにあるかは無論重要なことだが、作者の思惑からぶっとんだ読みをすることも、批評の醍醐味のひとつだと考える。だがそんな読み方をすると作者は怒るかもしれない。つーか怒るよなあ、普通。つーか怒らせようとして書くことすらあるもんな。たとえばね、なんでもない恋愛詩から作者の女性差別感情を読み取ることも可能なわけ。そして私はわりとそういうことやりたがるわけ(今は止めてる)。まず、そういう意味で、私が批評すると格闘になりかねない。避けた方が無難だ。

で、もうひとつの意味での格闘。「新しい読み方」と「古い読み方」が対立したらどうなるか考えてほしい。詩と格闘するわけでも作者と格闘するわけでもなく、読み方どうしの格闘、批評者どうしの格闘になってしまう、のである。そのような批評者どうしの論争はなんら珍しいものではない。有名なところでは、「たけくらべ」論争というのがある。樋口一葉の「たけくらべ」の終盤、美登利がなぜ突然変貌したか、にまつわる論争だ。美登利が初潮を迎えたからというのが「古い読み方」で、美登利がはじめて客をとった(すなわち処女でなくなった)からというのが今のところ「新しい読み方」である。樋口一葉亡き今、どっちが正しいか誰にもわからない。どっちが普遍になるべきかは、樋口一葉が生きてたってわからない。そして、普遍になったからってその説が優れているとも限らない。普遍イコール優れているだなんて、あまりにも恐ろしい考えだ。批評者たちはきりもなく延々と論争を続け、結論は出ず、白黒はつかず、それでいいのだと私は思う。


そいでもってあとなんだっけ、そうだ、誤字の話。私は誤字脱字が気にさわってしかたないタイプなんだが(これは性分なので変えられない)、なるべく指摘しないことに決めた。最近決めた。理由はひとつじゃないから一言では説明できない。まずひとつめの理由はコレ、馬野幹さんの「詩論I」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=96399。こういう考えの人がいるのであれば、私は尊重する。変えたくないというものを変えろとは言わない。もうひとつの理由は、誤字脱字をするみなさんにまず謝罪しておかねばならないが、もう、ごく単純に、誤字脱字が面白いからだ。むしろ誤字脱字の方が詩的だと思えるときもある。かつて私が書いた文章から孫引きするが、たとえばこんなの・・・
「どらかせんの先にせんこらで火をつけると火花をたしながらぢぬんの上をぐろぐろ回転する花火です。あぶないのてい、はなわてさかずかないていくだちい」
(SFマガジン2003年12月号掲載 唐沢俊一「猿たちの迷い道」より引用)

このなんともいえないシロモノ、唐沢の言によれば中国製ネズミ花火の使用説明書き、であるらしい。どうしてこのような誤植が起きたか予想ができないではないけど、このシロモノ、まあ偶然の産物といってよいだろう。しかし偶然にしてもものすごい。
「詩の境界線」佐々宝砂 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=5738

ぢぬんの上をぐろぐろ回転されたら、シュルレアリスムの詩だって負けそうだ。こんなの読まされた日には、腹を抱えてのたうちまわって腹筋が筋肉痛になりかねない。だが、作者がまじめに、そうだよ、ごくまじめにこういうものを天然に書いてしまってるんだとしたら、私は、こっそり笑わねばならない。あなたのおかげで楽しかったですありがとう、と言うこともできない。ツッコミキャラなのに黙ってなきゃならない。


どうもなんというか、一言ではとても言えないのだが、世の中は難しいね全く。


以下、さっきまで作者コメントにあった文章を追記。
少々つけくわえ、というか訂正、というか、たぶんセルフツッコミ。

古典的な叙事詩において「話者=主人公」はありえないと書いたが、
そうばかりでもなかった。
夢幻能では、亡霊と化した主人公(シテ)が自らの思い出を語る。
世の中かんたんではないねほんま。
↑ツッコミキャラは自分に対しても突っ込むのである。

思い出してしまったので追記するが、カムイユーカラは、
神々が一人称で自分の物語を語る。
くそーたくさん例外ありそ・・・
↑さらに突っ込むのである。

カムイユーカラや夢幻能の一人称と、
近代以降の一人称にどのような違いがあるか。
↑これは自分への宿題。

でもいちばん興味がある人称は二人称。
次が一人称複数。
そいでもって神の視点の三人称。
でもまだそんな専門課程までゆかない。まず基礎をこなせ私よ。
↑突っ込んだあとの自分へのフォロー。

神の視点の三人称と古典の一人称には、
どこか関係がありそうだぞ。
↑単なる思いつき。

「美亜へ贈る真珠」の主人公は、
もしかしたら、というか、ほんとは、
確かに語り手なのだ。常に傍観者である人間の物語としての。
↑さらに単なる思いつき。

夏目漱石の「坊っちゃん」を赤シャツの視点から描いた芝居「赤シャツ」、
あの物語の語り手は、いったい誰か?
あの芝居の狂言回しが「坊っちゃん」であるのは間違いないが。
↑いつまで思いつき書く気だよ。


散文(批評随筆小説等) ツッコミキャラは耐えまくる。−仲仲治さんに Copyright 佐々宝砂 2006-12-21 22:09:51
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