Michaelが来る
佐々宝砂

9号室のミズノさんの指は、
ときどき奇妙に震える。

登山中の滑落事故で全身麻痺、
凍傷に損なわれた右手は人差し指だけを残して。
そのまま数十年を経て皺んだ指、
その指が何かを書いてるようだなと思ったのは、
とある熱帯夜のこと。

何かアルファベットのようだけれど。
わからないのは上から見ているからだと気づいた。
下からのぞき込めばいい。
しゃがんで見上げると、
筆記体で、Michael、と
書いては消し、書いては消し、しているような気がした。

ねーえ?
ミズノさん?
Michaelってだあれ?

それから私は、
思わず声を出してわらった。

知らなかった、
知らなかった、
あはははははははは、
全身麻痺で喋ることもできない人間が、
表情筋ひとつ動かすことのできない人間の屑が。

瞳だけであんなにも、あんなにも、
おかしいくらいに強烈な恐怖の表情を作れるなんて!
あっはははははは、
ばーか。

夜勤のときの習慣がひとつ増えた。
習慣、じゃなくて、楽しみ、と言おうか。
熱湯ぶっかけて身体を洗うのも飽きたもん。
おもしろいのは言葉よ言葉。

ねえミズノさん。
Michaelが来るよー。
Michaelが来る。

動かないはずの顔が、
瞬くことしかできない瞳が、
恐怖に彩られる

ミズノさーん。
ほら。
Michaelが来る。

あれでずいぶん楽しませてもらったから、
ミズノさんが亡くなったとき、
とても淋しかったのはホントだ。
ミズノさんのおくさんに、
Michaelという名前に覚えがありますか、と
訊ねたのは、
ちょっとした好奇心の発露だけどね。

主人が滑落したとき、
主人と一本のザイルで繋がれたまま、
主人の横で亡くなった人の名前です。

ミズノさんのおくさんは、
少しめんどくさそうに答えて、
それから私のうしろを指さして、
眉をひそめて、
指をおろして、
ではどうも、ありがとうございました、と言った。

Michaelねえ、
数十年も寝っ転がって麻痺したまんま、
そいつのことばかり考えていたのかねえ、
ミズノさんは。
それだけ長く想われて、
幸せだよねえ、Michaelくんは。

私は休憩所で孤独に孤独に煙草を吸う。
誰が私を想ってくれるかしら。
ねえ、ミズノさん。

最近私の肩は重たい。


自由詩 Michaelが来る Copyright 佐々宝砂 2006-12-19 23:41:56
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