彼の 人生
もも うさぎ

映写機の音がする




彼は 人のいない小さな劇場の

 古く湿った 客席に座り


 白くぼぉっと光るスクリーンを見つめる




 
ただ、かたかたと廻る音がするだけ



そこには何も 写されることなく
 
 ただ 薄白んだ光が 曖昧に揺れるばかり




しかしそこに 彼は 見ている






幼い日 真っ赤な夕暮れに駆られ 

 学校かばんを背に飯田まで 何時間も歩いた その線路を 




その線路を 彼は 見ている








戦時下 満州へ行き
 
 二度と日本の土は踏めまい、と覚悟した

  行き先を告げられず乗せられた船の 舳先に 



 
 佐渡の島を 見た 瞬間のことを




その瞬間を 彼は見ている









大病に倒れ 暗い夜道を 家の中から運ばれた

 担架の上から しっかり目に焼き付けた



しんとした真冬の夜空に浮かぶ 
 
  


 真っ白な 月のことを








その月を 彼は見ている









孫が 産まれた という知らせを受けて

 朝の薄暗いバイパスを 

 興奮のあまり幾度となく 道を間違えながらも

  たどりついた病院の 病棟の明かりを





その明かりを 彼は見ている











それらはスクリーンの上に

 浮かび上がっては消え


浮かび上がっては 流れていった




 彼はただ 見ている

  

彼はけして動かない











人が 持ってゆけるものは フィルムひとつ のみ 

 その他には なにひとつ 持ってゆけないのだから


 
彼は座ったまま、そっと 見ている

    映写機はかたかた廻り、スクリーンは黄ばんだ白い光にあふれ








上映される その時間ときを、優しさや 愛と 呼ぶならば


 人生は 愛に溢れている











       人生は 愛に 溢れている









〜彼の 人生〜




自由詩 彼の 人生 Copyright もも うさぎ 2006-12-07 03:04:34縦
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