遠い手 デッサン
前田ふむふむ

彼女は二度、嘔吐して、蒼茫とした死者の距離を巡る。
傍にいる三毛猫は、
笑っているテレビを見つめて、溜息をつきながら。
(イラクから自衛隊が撤退するそうだね。
(おばあちゃんはね―。戦争は大嫌いだよ。

簡素に沈む二階にある部屋で、世界は瓦礫のおとぎ話のような夢を、
溢れさせて、滴り落ちる気配は、
低くうな垂れる四季のにおいを吐いて、
床を這い、慟哭となって、
曲折した記憶を綴った日記に、鳴り響いている。

点滴の均等な速度が、ぬるい空気に滲みこんで、
清められた夜が、楽しげに顔をあげて。
(おばあちゃん。わたし、きのう渋谷にいったの。
(彼は頼りないけど、楽しかったわ。
(ほんと、手を握ったきり離さないのよ。
(わたし、少し恥ずかしかったわ。

開けない窓を、舐める雨の雫が、かすかな意識の紐を緩めて
ふたたびの、浅い眠りを宛がわれる。
(あの日、父さんに叱られて、海辺で泣いたの。
(悲しくて。
(海の向う岸は、一面見渡すかぎり、真っ赤に燃えていたわ。
(従兄弟のさっちゃんも死んだわ。
(とっても、怖かったの。覚えているわ。
(あの日、震える興奮を覚えたの。
(きっと、あの日から、体をひらいて受け容れたんだわ。
(青い眼のうさぎを。
(でも、幼馴染の彼は、そのとき、手を握ってくれていたわ。
(とても、強く。

暗闇が灯台を見つけて、肉体を点滅している。
青白く萎えた足は、動くことを忘れて、
寝台を肌色に染めている。
古い空調が、訛る言葉で返事をし続ける、二階の部屋は、
降りる階段を失って何年がたつのだろう。

遠い声は、狭い夢のふところを走り抜けて、
眠る三毛猫のしろい息が、朝のほころびにとけて、
水色の空がしずかに流れだす。
(学校に遅れるからって、父さん、バス停まで、
(手を握って、引っ張るから、わたし手がとても痛かった。
(でも、父さん、嬉しそうだったわ。

一階の居間に佇む停車場に、厳かにバスは止まった。
呼吸を荒げるバスは、七色に散りばめた都会を、
死者を乗せて、走り去る。
彼の岸にバスは足を滑りいれると、
到着を告げるクラクションに、死者は生き返り、
点滴の湿った闇が、彼女の眼を濡らす。
涙で溢れた床には、二十一世紀の夢をたどる旅の
パンフレットがゆらゆら揺れて、
三毛猫が眼を細めて眺めている。

(おばあちゃん、あした、彼と約束したの。
(そう、湘南の海にいって泳ぐの。
(いっしょに手をつないで。





自由詩 遠い手 デッサン Copyright 前田ふむふむ 2006-09-19 23:45:46
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