雑考
虹村 凌

日本時間では既に九月十一日を迎えている。
こちらでもあと30分も無く、9.11を迎える。

あの日、俺と祖母の暮らしている家に母が来て、
飯を食い終わった俺は、プロジェクトXを見ていた。
いや、酒が入って寝ていたので、正確には覚えていない。
確か、NHKの何かを見ていた気がする。
母親に起こされ、臨時ニュースを眺めていた。
ニュースキャスターが何か叫んでいる。
状況がよく把握出来ないが、アメリカのとある高層ビルに、
飛行機が突っ込んだと言う事だけは理解出来た。

見ていると、キャスターの背後に、機影が見えた。
瞬く間に其れはもうひとつのビルに突き刺さり、
真っ赤に膨れ上がって弾けた。
今でもこの事は鮮明に覚えている。
俺がいる状況とはあまりにかけ離れた現実。
突然に突きつけられた事柄。
細かく堕ちてゆく影が人であると判断するのに、
其れ程の時間はかからなかった。
まるで映画の1シーンのように、
其れは美しく飛んできて、真っ直ぐ突き刺さったのだった。

***

例え知らない人間であっても、
誰かが死ぬと言うのは悲しみを禁じえない。

***

おじゃる丸の作者、犬丸氏が自殺した。

***

生きると言う事は、他の生命体を殺すと言う事だ。
誰かが死ぬと言う事は、他の誰かが生きると言う事だ。
誰かが死ねば、食い扶持が増え、しのぎが回ってくる。
知らない人の死に対して涙を流すのは、
懺悔の気持ちなんだろうか。
それとも迫り来る死と言う事実への恐怖なのか。

誰かを社会的に抹殺、あるいは肉体的に殺す事に、
多くの人間が怯え、嫌がり、顔を背けるだろう。
人間だけは、そう簡単には殺せない。
蟻の触覚を契り、飛蝗の足を捥ぎ、
蝶や蜻蛉の羽を攀じる事は出来ても、
人の手足を切り落とし、眼を潰し、口を塞ぎ、
睾丸を握りつぶしたり子宮を破壊する事は躊躇う。

正当化する訳じゃないけれど、やってる事は同じなんだぜ。
それには多くの人間がとっくに気づいている。
学校では教えてくれない事。
生きるって事は誰かを殺すって事だ。
それを本気で実践しているのが任侠道家業の人かな。
気づいているから、出来る仕事。
弱い人間に付け込む弱い人間。

誰かが死ぬ事を喜べ、とは言わない。
俺が死んで喜ばれたら、そりゃあ切ないってもんだ。
俺は惜しまれながら死んでゆく英雄に憧れるよ。
故・金子氏になりたい訳じゃないけれど。
俺が死んでも笑っていてくれ、といえない。
泣いてくれるか?涙を流してくれるか?

顔を背けるのは、事実からか事柄からか。

***

終戦記念日に、我々が黙祷を捧げるように、
NYCでも、黙祷を捧げる人間達がいる。
捧げない人間もいる。

***

終戦記念日は祝日じゃない。
9.11も祝日じゃない。
祝う事の出来ない、それでも何かを考える日。

***

神々がいる限り、我々は地球が滅亡するまで、
戦争を止める事が出来ないだろう。
それでも、一部だけ切り取れば、仲良くできるんだ。
小さい輪を広げられないんだろうか。
繋いだ手を伸ばして、もうひとつの手で、
誰かの手を握る事は出来ないのだろうか。
差し伸べることは出来ないのだろうか。

***

誰かを殺して生きる限り、無理かも知れない。
つないだ手とは逆の手には、ナイフを隠しているから、
もう一方の手を出せないのかも知れない。

今の俺には、よくわかんない。


散文(批評随筆小説等) 雑考 Copyright 虹村 凌 2006-09-11 12:55:35
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