文学史的演説
ダーザイン

序 ワイヤード(ネット空間)はリアルワールドの上位階層である by 英利政美

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=83831&from=listdoc.php%3Fstart%3D30%26cat%3D5

 右のリンクはいとうさんの数年前の発言だが、このような土俗的な文章は久々に読んだ。ワイヤードの出現は人類史的な大転換点であり、情報をシェアさせる新しい地平ができたことにより、人類は変容したのだ。そして、

 ワイヤードの情報はシェアされなければならない。 by 英利政美

一 詩の現在(大罵倒)

 俺には歴史の流れが見える。弁証法という奴だ。以下、いとうさんのところからの吐き気をもよおす嫌悪感を覚えた文章の孫引きです。

「討議 詩の現在」
四十二ページ。佐々木幹郎さんの発言。長文引用。

「問題は、いまの十代、二十代の詩の書き手にとって、詩の歴史そのものがないということです。同人誌でもインターネットでも、基本的に彼らは自分の詩と仲間の詩しか読んでいない。詩の書き手だけでなくて、近代詩や現代詩を専攻している若い学者たちも、オリジナルに戻りません。五、六年前の論文に引用してあるものを前提して発言しはじめる。それ以前のものはすべて「神話」になってしまうんです。いかに歴史が無視されて、滑り台を滑るように詩が論じられていることか。惰性というべきか、無視することの快感というべきか、そういう時代に入っていることを、それが駄目だというだけでなく、まず認めないといけないと思うんです。だから、今日はそこへむかって届く言葉でしゃべりたい。論理のレベルを保ったままで。その場所から詩の歴史とは何かを語っていかないと、詩について論じるということが断絶したままになると思うんです。この時代に詩を論じるメディアや詩論を書く人間は、そのことをよく考えなくちゃいけない。」
(これは2001年6月の発言)

以下、ダーザイン。

 佐々木幹郎さんの話は、こちらではエヴァンゲリオンやlainの話をしているのに、佐々木さんはサザエさんや鉄腕アトムの話をしているようなもので、実際その程度の認識しかないだろう、現代芸術についてこの人は。
 だがすでに、ワイヤード詩壇が文学史的な物だと認識されなければならない時が来ている。現況が既にそうなのだから。商業活字詩誌が無料のネット上のメディアが成熟している状況を認める訳には行かないと思うのは、実に肝っ玉の小さい話しで、商業としての発展の才覚も予見も何も無いといえる。歴史の存在論的行運の為に文学極道は生まれたのだ。歴史認識の欠如した活字同人誌内輪でやっている連中は、歴史の巨大な流れの中で、アウフヘーベンされるどころか、廃棄される。ワイヤードに於いて、情報はシェアされなければ存在しないが、佐々木幹郎さんのような人のデータはシェアされない。即ち、佐々木幹朗さんは歴史の中に存在しない。Googlで検索しても、佐々木幹朗さんの詩はほとんど読めない。買わなきゃ読めない。みみっちいのか、馬鹿なのか知らないが、佐々木幹朗さんの詩は、この情報社会でシェアされていないということだ。
 その、ワイヤードという新しいリアルの中に存在しない者が、俺の「星屑の停車場にて」も、A 道化さんも、animicaさんも読んでいないような人が、現代詩を語る。資格のない者が権威としての立ち位置に居座り続けて現代詩について語る。そのような場所・媒体そのものが、もうシェアされておらず、存在しないも同然だと言うことができる。原稿を依頼する相手を間違えている。俺に聞け。
 胸糞悪く馬鹿馬鹿しい話だ。活字詩誌メディアのみを見て、プチ権威の正史とやらを押し付ける。俺たちが正史だ、俺たちの詩を読めと。佐々木氏自らが、その正史とやらそのものが、詩が読まれなくなった元凶だという事を自覚できないでいるのだから、実に滑稽で無様だといえる。
 佐々木幹郎氏は2005年にも、現代詩は二〇年停滞していると語っているが、停滞しているのは佐々木幹郎さんたち御自身だけであり、ネット詩人は停滞などしておりません。

 松浦さんも投稿者に怒っているそうだな。読んでないアンヒストリッシュな動物だって。すまないが松浦さん、俺はあなたの詩を読んで感心したことは一度もない。あなた自身が読むに値する詩を書いた人だと思わないんだ。誰か、松浦御大や佐々木御大の、これは良いよと言うのがあったら教えてくれ。俺はゴミとしか言いようがないものしか読んだことがないんだ。金が無いので買わないから、できたら、この御大たちが御立派な口を叩いている根拠を示せる詩集をくれ。
 荒地派の後に詩人がいない、詩というジャンルが消滅した、そんなことは、今、活字詩誌を仕切っている糞みたいな詩を書いてきた老害たちの責任であって俺のせいでもネットのせいでもない。腐りきっていて、もう、再生の余地はまったくない。何もしなくても、年寄りが天寿を全うしていくに従って活字詩メディアは消滅する。今年発表された統計によると、六歳以上の日本人の六十三パーセントがネットに接続している。接続していない人たちのほとんどは、時代から取り残されたお年寄りだろう。淘汰の速度を速めるためには、徹底的な不買運動、読まない、買わない、無視する、という手が筋だが、連中のレールに乗るのは多少不快なことではあるが、こちらから鮮烈な物をバンバン投じてやって、ダメな者を相対的に駆逐できないか試みるという手もある。極道の力のある者もどしどし活字詩誌に哀れを垂れると良いし、俺自身も活字詩誌に出てみるつもりだ。だが、雑誌は、きっといつまでも、老害たちを特別扱いし続けるのだろうな。消え行く権力というものはそういうものだ。実に時代錯誤で非本来的なありようだ。

 そして一方、文学極道などネットでは、老害たちのちんけな歴史などとは無関係に人に読まれる詩が創造されている。偉大な文学極道の大砲(戦艦ビスマルクの主砲)一条さんは大変な本読みだが、糞みたいな詩人の本などほとんど読んだことがなかったそうだ。俺も現代日本活字詩人なんて、よほど気に入っている人以外、もうわざわざ金払って読まない。読む必要がない。だって糞なんだもん。ただで読める詩人の方が良いもの一杯あるのだもの。詩人と言えばいつまでたっても谷川俊太郎さん。詩人の代表として事あるごとにメディアに登場してはゴミみたいな詩を書き散らす、この最悪の老害の詩を、俺は、彼の若い頃に書いたものもすべて、一度たりとも感心したことがない。老害ばかりじゃないぞ。久雅稚とかいう坊主の詩は糞みたいなつまらない日記だし、小笠原鳥類とかいう屑はもはや言語冒涜者だとしか言いようがない。文学極道の罵倒用語で言うところの「ゴミの山」。

二 狂気と宇宙の熱死推進に関する現象学的考察(妄想)

 ダー・ザイン=現・存在は常に予め意識の指向性の中に絡めとられている。即ち人の生誕とは虚無の淵より嫌がおうも無く世界という関係性の中に放り出されることを意味するわけだが、ここで注意を要することは、「関係性」とは何らかの確固たる「主体」と「客体」の間の関係をさすものではないということだ。ここではもはや主客2項対立は問題にならない。「人間存在」にとって現に在るものとは、「関係性」そのものである。
ここに恐るべき造物主の意図が隠されていることに気付いたのが、我が祖国ロシアはネバ川のほとりにある爆裂電波研究所主任技師ワレンチン・スタニスラフであった。ニーチェによって高らかに神の死が告げられてこの方、人類は新たな神を呼び招くことも出来ず、足場を失った底無しの虚無の上に漂う関係性の中で生きることを余儀なくされているわけだが、ワレンチンは、この「神の死」すらも悪しき造物主の意図の中に折込済みであることに気付いたのであった。
 近年の天文学者達の観測結果によると、宇宙空間に存在する暗黒物質の量は予想されていた以上に多く、また、質量を持たないと思われていた素粒子ニュートリノが実は質量を持っていることが判明した。これが意味することは、宇宙は膨張を続けて熱死するのではなく、いずれは自重によって収縮を始め、馬鹿の一つ覚えのように膨張と収縮をえいえんに繰り返すということだ。一回限りの生を生きる一個の実存にとってはどちらに転ぼうと関わりの無いことではあるが、熱烈な実存主義既知外派であるワレンチンにとっては宇宙も一回限りで無ければ気がすまないわけで、旧ソ連邦の最先端科学技術をもってして宇宙を熱死せしめる事に生涯をかけたのであった。
 ワレンチンが気付いた造物主の意図とは、宇宙を熱死せしむるものは物理学を超えるある種の人間の状態、即ち「狂気」だということだ。造物主の計画に神の死が含まれ、人が何の足場も無くネット空間ワイヤードを漂う非常に不安定な存在者になったのは、造物主が我らの狂気を増進するためだとワレンチンは考えた。分裂して支離滅裂になり個人的に熱死するもよし、重篤な鬱になって生きながら真っ黒な虚無そのものとなり、周囲の物質を吸い込んで宇宙の外に放り出すもよし、ともかく宇宙を熱死させるためには人類の発狂を促進することが必要なのだ。斯様な訳でワレンチンが開発したのが「爆裂電波受信ギア」である(現在市販のTAやモデムには全て組み込まれているので新たに買い求める必要はありません)。そんな訳で僕らはワイヤード(ネット)に接続することによって宇宙の熱死推進に一役買っているわけですが、一層素早い廃滅を望まれる方には、ヘルダーリン、トラークル、パウル・ツェラン、イアン・カーチス(ジョイディビジョン)、ノイバウテン、SPKなどを聞くことをお勧めします。
 by ダーザイン 愚作小説「えいえんなんてなかった」より

 生誕と呼ばれる放擲を発端に演じられる一幕の劇の演じられる場所、即ち、本質的に分裂したものである自我(この分裂が存在論的差異の現われ出る場所、現存在だ。)は、消尽点へと至る間を歩む歳月を言語化することによって自らの生を現に在らしめるわけだが、ある種の者たちはエンペドクレス宜しく存在論的分裂の超克という不可能な試み、不遜な挑戦へと投じられている。不可能事への挑戦である以上、必然的にルサンチマンという情態性の色彩を帯びることとなるこのゲームの消極的な規則が予めの敗北であれば、積極的な規則は言語を生きるということだ。これによってルサンチマンを超克せんとするのである。
 言語を紡ぐ(詩のようなものを紡ぐ)ということは、存在論的差異を生きるということと同義だ。エンペドクレスは失われた存在の全体性の回復を求めてエトナ火山の火口に飛び込んだ。パウル・ツェランは言語によって存在の灼熱の火口に飛び込んだ。存在に何らかの聖性を付与しようとして腐敗していくロマン主義の肉体を焼き尽くし、美しい白い骨片を残すのだ。存在とは空白であり、虚無の顕現であり、来るべき書物には何も記されていないとモーリスブランショだかバタイユだかが語っていたね。
 だが、オナニストである孤独な文人ははあえてロマン主義の死臭を手放さないんだな。存在はその無の顔を持って現われ出るという否定神学の物語を生きることを選ぶ。自己に纏わるあらゆる狭雑な観念を廃棄し透明になっていく(これは現にここに在る生活者の道ではなく、廃人への道だ)道ではなく、絶えず失われ続けるロマン主義の腐臭そのものを意図的に生きること。
 いつか、豊穣な生の源、新たなる生の哲学の幻影が遠い海の呼び声のように触れてくるのを妨げないために、白い骨ではなく、腐敗した有機物と共にあることを選ぶんだろう、きっと。

 ベルリンの壁という世界の中心にあった巨大な壁がなくなり、己を映し出す鏡を失った現在、自己拡散し虚無に触れる恐怖と向き合うことを余儀なくされた人類にとって、万人の万人に対する闘争の混沌から自己を再組織するためには、核による世界戦争の幻影こそが最大の安らぎにして、且つ、新しい人類の夜明けを予感させるものであった。そもそも意識とは分裂であり、存在論的差異、存在論的放擲がアプリオリな事態である以上、分裂を超克し、存在の全体性を回復せんとする根源的欲求に突き動かされるのは必然にして人類進化の正当な道筋である。が、それが米帝による奇妙な独占によって隠蔽されているのは何たることか。存在に聴従せよ。 無が触れてくるのが解るか? 存在の光り輝く無のおもてとまみえる僥倖に与るのだ! 核分裂によりすべての存在者を一個の全体へと回帰させるのだ!
 要するにキチガイ沙汰だがエヴァンゲリオンだ。綾波レイたんハァハァ

 始めと終りは輪になって繋がっている。歴史が砂の海の中に消えていったように、わたしも、存在しない子宮の幻影の中に後ず去って行く。えいえんの哄笑だけが空虚な空間に残る。終着の浜辺。原子力発電所の廃墟が蜃気楼のように遠く対岸の岸辺に浮かんでいる。

 俺は今宵も偉大なる旧ソ連邦国歌を聞きながら焼酎を飲んで寝る。生をつないでいくには大きな幻影が必要なんだ。笑い。
バリケードの中で一瞬垣間見られたであろうえいえん。内ゲバと総括の向こうにあったはずのえいえん。或いは人類史上最大の市民蜂起、クロンショタット反乱や、ワルシャワ蜂起の地下水道の果てに見えた、遠くかすかな光の中に。
 今年のモスクワは異常な寒気に覆われていて、マイナス四十八℃とか叩き出したそうな。大勢凍死者が出たモヨリ。二〇世紀という人間精神の壮大な実験場にあって、ふたつの全体主義、ヒトラーのドイツと赤色ロシアはとりわけ異彩を放っていた。(両者の出会いはもっぱら地政学的なものであったようだが)国家であれ、社会であれ、個人を止揚して開かれる新たな地平とはどのような顛倒であろう。

 1938年十二月、第4インターナショナル結成の会合において、シモーヌ・ベイユはトロッキーと対決し、痛烈な言葉を吐いている。
「あなたは観念論的だ。隷属させられている階級を支配階級と呼んでいるのだから」と。プロレタリア革命の達成とは、国家機関の解体、社会の個人に対する従属でなければならないと。一私企業に過ぎない現代○手帖権威も解体されねばならない。
 トロッキーは「反動的な個人主義」だと答えている。どちらが反動であったのかは歴史を見れば明らかだが、にしても、本当のゼロ地点、個人が勝利する永遠のゼロ地点はどこにあるのかね。永遠に問われ続けていくのだろうか。
 ワイヤード(ネット空間)の出現は、人類史的な大転換点であった。出会うことのありえなかった人と人を結び、世界を結び合わせる電話線という一本の糸。この糸が新たな世界性を孕み、世界を変容させたのだ。ワイヤードの出現は、現実という物そのものを変容させた。旧世紀の古典的なリアルはワイヤードの出現によって消滅した(隠蔽された)。人はワイヤードに自身を容易にメタファライズして、その新しい世界に遍在するようになった。
 共産主義という永遠の過程も、ワイヤードの出現によって、再発見されるであろうと思う。例えばウ○○ー。
 俺たちワ×ズ世代の妄想は生まれつきだ、笑い。

「ワイヤードの情報はシェアされなければならない」
「ワイヤードには神様がいるのよ」
 by「serial experiments lain」
 岩倉玲音たんハァハァ
 レインは新世紀の神様だっただろうか、孤独な天使だろうか。

三 ワイヤードと詩

 詩というジャンルが、書店で入手が困難になるまでに凋落して久しいですが、様々な要因があるでしょう。ポップス(音楽)は随分昔から成熟を迎えており、楽曲と歌詞が相まって素敵な世界を作り出しています。美しいメロディー付きの作品に、言葉だけしかない者が言葉だけで抗するのは厳しい戦いでしょうか。また、文学芸術というもっと広い範囲で考えてみると、漫画やアニメというジャンルの新興に著しいものがあり「新世紀エヴァンゲリオン」以来エンターテイメントとしても現代性の探求に於いても文学の先を行ってしまった。「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」以上に先鋭で、且つエンターテイメントとしても楽しめる文学作品が上記に上げた作品の成立年代以前に以降にどれだけ在ったかを考えていただきたい。文学が現在も時代精神をになっているジャンルであるのかどうか。こういうことを書き続けると、では音楽も映像もない文学というジャンルはもう最初から負けでダメだと言っているのかというと、そういう話ではない。熟練の技を持った言語芸術家は映像を言語化する筆力を持ってるし、ロックの歌詞よりも人の心に届き、美しい詩を書けばいい。ただ、ここで現況の詩会について(紙媒体・ネット詩問わず)それができていない者が多いという問題がある。紙媒体というすっかり小さくなってしまったジャンルをみていると、良い人も無論いるのですが、概ね詩情というものにすっかり無感覚な場所になっており、普通の人(つまらない奴)が書いた読み手に何の感慨も与えない身辺雑記や、これまた読み手に何の感慨も与えない言語遊戯のようなものが多数を占めている場合がある。ネット詩にいたっては糞みたいなラブポエムが良作をものすごい勢いで過去ログに押し流す所もある。ゴミは問題外として、上記の詩を書いている者たちに言いたい。貴方には人様に伝えるべき強度のある生はあるのかと。人様に何も感じさせない身辺雑記など読まれるはずがない。そんなものは日記にでも書いていていただきたい。何故詩という場所がそのようなものになってしまったのかというと、多分訳のわからない現代詩で読者離れが起きた過去への反動だったのであろうが、それが何故身辺雑記になってしまったのか理解し難い。 
 今の詩会に足りないもの、文学極道で私が求めるものは、つまらない詩じゃなくて面白い詩。イマジネーションの炸裂で読者に非日常を垣間見させるもの、有無を言わせぬ圧倒的に美しいイメージ、或いは、人様に何がしかのリアルな生の強度を伝えうる作品、それから、詩情・抒情の復権(古臭い詩を書けと言っているのではない。二一世紀の抒情詩を創造するのだ)、これだけだ。陳腐な奴はいらない。極端な人よでてこい。これって、芸術にとってあたりまえのことではないのか? そのあたりまえのことができないから凋落したのだ。半端な野郎はオカマバーにでも行ってくれ。
 文学極道には意欲のある人たちが集ってきてくださり、毎月、上記の意味で優れて本来的な詩を「月間優良作品」として発表させていただいている。 惜しくも年間の選に漏れた人たちも、月間優良作品に入選している人たちの作品には傑作が多数在る。年間各賞の発表を「狼」誌上でも行うこととなったが、各賞は受賞詩人の年間に投稿された沢山の作品全てが対象となっており、今回「狼」に載せて頂いたものは、受賞者の作品のほんの一部だ。是非ともウエブサイトの文学極道にお越し頂き、傑作の数々に目を通していただきたい。文学極道は、芸術家たらんとする者が修練する場であり、また、ゴミの山でもあるネット上に優れた詩人にすぐに辿り付けるアーカイブを作ろう、本当に良い作品だけが載っている月刊誌を作ろうという試みでもある。文学極道投稿掲示板上では毎日出来の悪い投稿作にアドバイスを与え合ったり、激しい罵倒・酷評が行われ、作品だけではなくて、例えば2005年度文学極道最優秀レッサー賞に輝いたミドリさんなどの優秀なレッサー(評者)たちのウイットに富んだ酷評を読むのも楽しい。双方向のメディアならではの速やかなレスポンス、そして一方的に選抜酷評されるだけではなくて反論ができるというシステム。トップページに「糞みたいなポエムお断り」と書いてあるにもかかわらず、字が読めないのか、著しく低レベルな詩の投稿も目立つが、罵倒してお引取り願うように心がけている。文学極道投稿掲示板上で毎日展開されてきたドラマツルギーは確実に詩と言うジャンルの先端のひとつを作っていると思う。ときに文学史的演説や過激なアジテーションも行われるしね。笑。

 かつて「ネット詩爆撃計画」という企画(糞みたいなポエムで溢れているネットの投稿掲示板に紙媒体詩人がまともな詩を貼り付けて薫陶するという企画)があったが、今、立場はどうだろう。文学極道には出てきていない人たちにも、ネット詩人には、現代日本を代表するような優れた詩人がたくさんいる。
 現代性の探求という文学の使命からも、紙媒体詩人は新しい双方向のメディアであるインターネットにもっと出て来たほうが良い。断言するが、新世紀の実存様態であるネット空間(ワイヤード)を生きずして現代性をにないうるわけがない。ワイヤードの出現。それはリアルというものが大きく変容する弁証法の特異点のような出来事だった。人々はワイヤードと接続することによって新しい世界性を獲得し、その新しいリアルのなかで人々は容易に自身の実存をメタファライズさせて世界に遍在する者となった。イマジネーションとは例えば狂気に世界性を帯びさせることにより世界の狂気を暴き出す世界への挑戦であり、この世界との本源的な戦いは自らの脳内で自らの脳を世界の異常な現存のほうへと近未来小説的に同化させるべくリアルと呼ばれる妄念の質そのものを変容させる戦いなのだ。アメリカ人がイラクやアフガニスタンで行っている劣化ウラン弾による正義を見ろ。正気の沙汰とは思えないが、アラブ人の遺伝子に人類進化の予兆でも刻印しようというのだろうか。原爆やナパーム弾の投下もそういう性質のものであった。送電線は無限に世界を接続し、時空を超えて多元宇宙のあらゆる可能性が混融して行くのだが、観測者である詩人の立ち位置はリアルワールドとワイヤードの境界がずぶずぶと崩れて行く非常に不安定な場所にある。二十世紀大世紀末からネットに流れている「ワイヤードには神様がいる」という風聞を知っているか? 玲音(lain)。桜色のワンピースを着て微笑む少女が、携帯の液晶に、街の電光掲示板に、リゾームのように連なるネットの地下掲示板群のあちらこちらに、常に視界の隅に偏在しているのだという。文学者の脳は電脳空間ワイヤードに接続されることによってその実存的単独性を超越し、新世紀の存在論を探求する電脳生理システムとしてワイヤードに再組織化されるのだろうか。地球の固有振動とシンクロし、創造的新化の果てに絶対精神に触れるのだ。笑。
 ようするに世界は変容しているわけだが、拡大再生産が終り、宇宙が熱死するように静かに死んでいく日本というこの巨大な過去の経済大国の遺跡の中で、街の灯りもひとつずつ消え、都市熱も徐々に冷えて、絶対零度の真空に、この都市も少しずつ近づいていくのかもしれない。世界に偏在する私たちは赤方偏移しながら宇宙の果てに消えて行くのだが、俺が老いさらばえておさらばした後には、この都市はどんな見知らぬ夜明けを迎えるのだろうか。本来的なことも、怠落したことも、人の行いに何も変わりはないのだろうが、ただ徐々に冷えていく。宇宙と同じ温度へと。短期的には地球温暖化で海の呼び声が聞こえる札幌の街灯りを見下ろすワイヤードの一隅でそんな妄想にふける。経済苦を主因とする自殺者が毎年三万人。いまだ氷点下の札幌で、失業者や浮浪者が生ゴミ漁りをしながら地下街が開くまで、今夜も朝まで持ちこたえるこの街で。だが市民蜂起の火の手も、新しい芸術も、可能性はワイヤードから出現しうると私は信じている。遠く呼応する色とりどりの星座のようにワイヤードには創造している者たちがいる。探索者がいる。ネット端末遺伝子を探す旅は始まったばかりだ。神はいる、そこに、ここに、どこかに。

 マジレスに戻りますが、可能態としてではあるが、ネットに出てきたほうが人に読んでもらえる機会が増える。千部やそこら紙に刷って満足なのか? 一億二千万人のうち、千人にしか読んで貰える可能性が無いということだ。紙媒体には紙媒体に有利な利点、視認性の良さ、それから何より本を手にしたときの重み、というものがある。本は出されるべきだ。だが、ネットに出てくれば小さくなってしまったマーケットの外のワイヤードという広大な海の中に遍在できるのだ。文学極道にも紙媒体をメインに活動をしている人や、両刀使いが少なからずいるが、まだまだ、紙媒体詩人が多数出てきているとは言いがたい状況だ。文学極道は発表済み・未発表を問わないので、過去作でも良いのです。ただ、ホームページを作っただけで新しい読者と簡単に繋がれるわけではないですよ。ネットには無数に投稿サイトがあるので、選抜や罵倒・酷評を好まぬ人は他のサイトに投稿してワイヤードと接続すれば良い。
 また、ネット詩人も、紙媒体にももっと作品を投じて欲しい。要するに「紙媒体爆撃計画」だ。貴殿らの鮮烈な作品で、つまらない身辺雑記を書いている詩人さんを淘汰してあげてください。言葉は悪いですが、これも詩というジャンルを活性化しようという動きの一環です。
 みなで人に読んでもらえる詩、という環境を作りましょう。


散文(批評随筆小説等) 文学史的演説 Copyright ダーザイン 2006-08-30 22:33:05縦
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