お茶目なゴリラはヨーデルがお好き
千波 一也

「わたし、ヨーデルが好きなの。」

それがぼくたちの出会いだった
未知の在庫が減少していることは
それなりに聴いていたけれど
まさかここまで及ぶとは

通行人は誰一人として興味を示していないし
彼女(おそらくメスだと思われる)は
期待に瞳を輝かせているし
仕方がないので
ファルセットを披露してあげた

  美しすぎるがゆえに封印されしは裏の声
  不用意に聞いてはならぬ
  触れてはならぬ
  たちまち魅せられ虜になるであろう
  それをも畏れぬこころが在るなら
  いざともに往かむ
  アルプスの頂


「これを飲んでひと休みしましょうよ。」
と、
差し出されたのは乳白色のドリンク

「わたし、ヨーデルが好きなの。」
と、
目に映るのはびっくりドンキーという飲食店
なかなか酸味のきいたドリンクは
ヨーデルという商品名らしい

なるほど

 見ちゃだめよ、と子連れの母親が通り過ぎる
  (子守歌にはファルセットを是非)
 家出少女と不良少年たちから まばらな拍手
  (夢たちよ、アルプスの頂を見下ろすがいい)
 そして
 あのひとよ!と変質者を指さすような熟女の背後に
 警察官の制服が見える
  (ぼくよりもゴリラの方が問題ではないのだろうか)

仕方がないので逃げることにした
全速力で走りながら酸味のきいたヨーデルを飲み干した
今度注文してみよう
値段はいくらだろう

「美味しいでしょ。」と、
ゴリラはお茶目な微笑みひとつ

それがぼくたちの出会いだった



「あたい、レタスが好きなのよ。」

ごく自然にぼくの部屋に住むようになった彼女は
相も変わらず主張をする
が、
今日の彼女は少しばかり横柄だったので
キャベツを与えてやった

エセ・グルメよ、思い知るがいい

主従関係を築くコツ、という著書でも出版しようかと
ニヤニヤしていたのも束の間
「ちょっと!」
呼び止められてぼくは青くなる

  ●ぼくの青 旬の野菜に まさる哉

  ●メスなれど われはゴリラに 勝てはせぬ

  ●ときどきは ぼくの好みも 聞いてくれ

「青じそのドレッシングを頂戴な。」
と、
辞世の句を中断したものは
あざやかな五・七・五の調べ

お茶目なゴリラのナイスなオーダー

嗚呼、
敵いませぬグルメさま
ぼくは死ぬまで執事で在り続けましょう



「わたし、ばいばいが嫌いなの。」

確かに別れは辛うございますな
執事の物腰も板についてきた頃に
めずらしく彼女は
嫌いなものをうったえながら
窓の外を見つめている

  ひとからひとへ渡る言葉に
  ひとからひとへ渡るこころに
  必ず些細な物音が立ってしまうのは
  なぜ
  たしかに無音もあるけれど
  それはわずかで
  ほんとうに
  わずかで


彼女は故意にコインを落とす
つめたい木目のフローリングの床に

「乾いた音ね。」
と、
彼女は再び
窓の外を見つめている

いくつの売買が見えているのだろうか

その横でぼくは
ながらく記帳をしていないことに
思い当たった




「わたし、みかんが好きなの。」

夕焼けがきれいな空を見つめながら
たぶん
そのせいではないような
少しばかり遠い視線をもって彼女はつぶやく

ぼくは蜜柑の皮をむきはじめる

「それじゃあ終わってしまうじゃないのよ」
と、
お茶目なゴリラは
ため息をひとつ南へ流した

 なるほど左様でございますね
 けれどあしたは必ず晴天ですよ
 そして
 それを理由にノドが乾くでしょうから
 ヨーデルでも飲みに出かけましょう

「続くわね。よかったわ。」
と、
彼女は蜜柑を口にした


お茶目なゴリラはヨーデルがお好き

そうしてぼくは
ファルセットを披露しては
頂にあこがれて
その後に飲み干す爽やかな酸味に
よろこびながら
うるおう果実になるのだろう


くりかえし

くりかえし



自由詩 お茶目なゴリラはヨーデルがお好き Copyright 千波 一也 2006-07-04 20:06:52縦
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