ダブリンの草莽
前田ふむふむ

赤いくちびるの、艶かしい呼吸の高まりが、
耳元をかすめ過ぎて、
世慣れた顔のひろがりは、穏やかに浮かび上がり、
成熟した夏を秘めた、
落ち着く若い寡婦の頬をかしげて、
経験にさばかれた甘い水をはじく、
震える細い指を、ふくよかな乳房に這わせる。
女はよそいぎの布を急ぎ、素肌に馴染ませて、
妖しい闇を閉じてゆく。

リフィー河を望む低い窓は閉じられて、
巧みに情酔するあるじを隠す。

湿りかえる午後に夏を揃えて、
吹き抜ける窓の外の、意志の深い空は、
途中で固まる痩せた灰色の壁を、
一枚一枚と剥がしつづける。

ダブリン――西の果てで花開いた竪琴の奇跡。
誇り高き文学が、ケルトの血脈を伝える。
痩身の土地の都会は石を尚硬くして、
灰色のなかを伺う眺望の背景は変わらず、
暖湿な、近世の咲き誇る賑わいで飾っている。

ジェームス・ジョイスの市民は、
血の勲功の滲みこんだ城壁の重みに
暗くかたむき、
街に散らばるパブの片隅に、沈み隠れる。
むせかえる熱気のなかより、歌が流れる、
背の低い思想を結びこんだ、素朴な声を昂ぶらせて。
       
香しい闇に身を委ねていた女は、
狭い窓を開き、ほてる瞼を、
うすい陽光に差し出して、今日も見慣れた街の
苦悩を味わった風に浸る。
女はいつまでも、こころに青い透明な空を求めて。




自由詩 ダブリンの草莽 Copyright 前田ふむふむ 2006-07-02 00:11:50縦
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