つれづれに思う詩の世界
石川和広

 高野五韻さんが今日現代詩フォーラムで、すばらしい散文を発表していた。(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=75981)以前ブログで発表していたので、読んだことがある。ぼくも、詩の世界について、発言できればなあと思った。しかし、自分が納得のいく作品を書く積み重ねの中から、既成の権威などを批判するスタンスが固まってくるだろうなと思った。というよりも、書く積み重ね自体がはらむ運動というものを大事にしたい。詩にたずさわる人が、それは、どんな人でもいいのだし、開かれているべきだし、それが当然なのだが、言葉との関係をどのように作っているかなのだと思う。そういう実態こそが求められている。破壊でもでっちあげでもなく、そういう場所が日々の暮らしの中で、資本の論理に左右されながらも、つまり働いたり、食べたり寝たりの運動の中で守られているかなのだ。
 資本主義では、何にお金をかけるかが大事で、それと時間、それを割いて、いろんなものが形作られ、優先順位が決まる。それは、仕方の無いことだが、小熊秀雄賞がつぶれたり、そういうとこにお金がまわせないという感じになっているところもあると思う。それは正直言っていいとも悪いともいえないと思うけれど。
 それから、たずさわる人も限られている。
 別に資本主義に抵抗すると息巻く必要はないが、詩は、お金との関係が、もっとも、とりにくい分野になったのだと思う。一方でぼくらは、ネットでコスト感覚無しに、ただで、たくさん発表できるようになった。駄作もたくさんでるし、いいのも出る。これも資本の力で、ITに資本が集まらないとそういう環境は生まれなかった。そういう詩をダメだといっているだけではだめな気もする。とにかく埋もれてもいい覚悟で、実践しかない。
 お金に変えられないものを守るというのではなくて、なんといえばいいか、抵抗の姿勢を守りながら、というか、資本の論理にさらされているということに自覚的になったほうがいいんじゃないか。そういう層みたいなものがぶあつくなってくればと思う。その上で、文化は自分たちが作るもので、そこには一定の排他性があることもわきまえて、変にイベント化するのではなく(イベントは否定しない。ただどこまで残るものになるかだと思う。もちろん解散するバンドみたいにすぐれて消えていくものもある)、地道に書いたり読んだりする素養を培うほうがいいんじゃないか。
自分は少しずつ書きためていこうと思います。すぐネットに発表せずに、ためをつくる、書くことを楽しむ。夢中になってみる感じを取り戻してみたい。ぼくの生の中心課題である魂の体験をたくさん書いて、さらにノイズがありながらも、澄んだものにしていきたい。あとそのために毎日の生活が大事。やっぱり観念と具体のバランスは大事だと思う。ぼくのような思い込みの強い人間には。
 ネットでは詩を書くこと、読むことに色んな意見が飛びかっているけど、夢中になる時間を大切にしていけば、議論をしている時間が惜しくなってくるんじゃないかなと思う。
 本当に申し訳ないけれど、僕は病気のせいもあってか今ものを読むこと自体がしんどい。だから批評を書ける人は積極的にいいと思った詩をどんどん紹介していくといいと思う。すごくシンプルな意見で申し訳ないけど、紹介することは大事だと思うのです。しかも、タイムリーな詩だとか、そういうのを度外視できる環境ができればいいな。活字で。そんなの出来そうもない気もするけど。
 気になるのはこういう議論をするとき、結局、うわついてる感じがすることだ。高野さんのは浮ついてなかった。それがよかった。


散文(批評随筆小説等) つれづれに思う詩の世界 Copyright 石川和広 2006-05-26 23:29:13縦
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