中原中也記念館に行った日 〜後編〜
服部 剛

 湯田は温泉街なので、道を歩いていると数人で腰を降ろし足浴で
きる場所が何ヶ所もあった。記念館に近付くにつれて、「中也ビー
ル」という暖簾の文字が風に揺られている店をいくつか見かけた。 
 中原中也が生まれ育った生家跡に建てられたという記念館に着く
と、入口に立つ木の太い幹の傍らに「中原中也生誕之地」と刻まれ
た石碑があり、僕は立ち止まった。雨水の滴る生垣に中也の言葉が
展示されている細い通路を歩くと、自動ドアのガラスの向こうに、
帽子を被った中原中也の顔がぼんやりと浮かび、自動ドアが開くと、不可思議な澄んだ目線で宙を見つめる詩人のまなざしが、旅人の僕を迎えてくれた。(この建物の中には中原中也がいる・・・) そんな気配を感じながら、僕は中に入った。 
 展示されていた中也の詩は、いずれも何処かで読んだことがある
有名なものが多かった。生前中也が愛聴したというクラシックの音
源をCDで聞けるコーナーがあったので、鞄を降ろして椅子に座った
僕は、イヤホンから聞こえて来るノイズ交じりの音楽を聴きながら、瞳を閉じて、中也が生きていた時間に想いを馳せていた。 
 記念館を後にして、近くの古びた喫茶店に入り、紅茶を飲みなが
ら「中原中也詩集」を読んでいるうちに陽は暮れて、喫茶店を出た
僕は湯田温泉駅へと歩いた。 
 鎌倉からの旅で山口県まで来ていた僕は、次にいつ来れるか分か
らないので、名残惜しい気持で中原中也記念館の前を通ると、記念
館の敷地内に展示されている何編もの詩が白い明かりにぼんやりと
照らされており、僕は吸い寄せられるように薄暗い敷地内に再び入
り、展示されている詩の前に立ち止まり、中也の詩心と対話してい
た。その中で印象に残った詩は、中也の子供が生まれて間もない頃、仕事で旅先の船に乗っていた中也が、可愛い息子は今頃どうしているかと幸せな気持で夜の海をみつめている詩と、その隣に展示されていた、幼くして亡くなった息子が、数ヶ月前には動物園で無邪気に猫の鳴き声をしていた姿を想い出している詩だった。展示されている詩の横に書かれた解説には、幼い息子が亡くなった時、中也は小さい亡骸を胸に抱いたまま、いつまでも動かなかった・・・と書かれていた。 

 「あの時は、本当に・・・哀しかったんだよ・・・」
 
 白い明かりにぼんやり照らされた何編もの詩は、暗くなった記念
館の敷地内で無言の内に、語りかけていた。かつてこの世で生きて
いた頃の哀しみを、誰かに聞いてほしくて、詩人の魂は旅人の僕に
呼びかけていたのかもしれない。
 中原中也記念館を去る前に僕は、もう一度、建物に入る自動ドア
の前に立った。すでに閉館していた真っ暗な館内をガラス越しに見
つめた僕は、暗闇に不可思議な澄んだ目線で宙を見つめる詩人の顔
を想い浮かべ、

 「中也さん、今はもう息子さんと一緒にいますよね・・・」 

と心に呟いてから背を向けて、中原中也記念館を出て、湯田温泉駅
へと続く夜道を歩いた。 








散文(批評随筆小説等) 中原中也記念館に行った日 〜後編〜 Copyright 服部 剛 2006-05-15 21:01:20
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