姿見のうしろの物語
佐々宝砂

1.

手紙は書きかけのままテーブルの上で黴びてゆく。
青黴、赤黴、黴の色ってそんなに単純だったかしら。
ふくりと黴が起きあがる、
まき散らされる胞子は常に薄い紫で、
私の部屋はすっかり煙ってしまっている。
太陽がおちてきたときもこんなだった。
あのとき私は二階の子ども部屋にいて、
階段には薄明るい月光が落ちていた。
窓の桟がつくる影が、ひらひら踊っていた。
黴のにおいが漂ってきて、
どこかで誰かがアルバムをめくっている気配がした。
古ぼけた写真の中でピースサインをしているのは、
たぶん私の弟で。
テーブルの下でがさごそ音がする。
サソリがいきりたって尻尾をあげている。
泥沼から這い上がってきた生き物は
いつもなまめかしい艶を見せつけるけれど、
このサソリはどこからどこまで乾いている。
きっと砂漠からきたのだ。
黴のにおいがする、薄むらさきの砂漠から。
私たちの、故郷から。


2.

まぶたの上に白服のこびとがふたりいて、
小さな槍で私の目をつついている。
勤勉に、でも自分のしてることの意味なんか
ちっとも知らないままに。
やーい、と私はこびとに声をかける。
いくつもの時計が空からふってきて、
人っ子一人いない駅前広場の
明るいアスファルトの上に砕けてゆく。
無人のタクシーが一台やってきて、
すうっと私の目の前に停まる。
乗り込むときっと病院に行くんだ。
病院は不潔で、
黄ばんだカーテンがひとつひとつの病床をくぎっている。
大戦後のある一日、
傷病者はみな死んでしまって、
私だけが取り残されて、駅前広場で、
タクシーに乗り込もうとしている。
タクシーに乗り込めば死ねるだろう。
死ねば、湿った優しい赤土が、
私のうえにおちてくるだろう。
赤土はたくさんの生き物を住まわせている。
ふたりのこびとも、
赤土の中では大人しくなるに違いない、
そうだ、あいつらはただ、
私を眠らせたいだけなんだから。
ただ、そうしたいだけなんだから。
こびとは白い服を風になびかせて、
なおも私のまぶたをつついている。


3.

補陀落が来たのよとおかあさんは言ったが、
少女はどうしても信じられなかった。
補陀落の噂はこんな田舎町までも届いていたが、
詳しいことはインターネットにもテレビにも
報じられてはいなかったのだ。
噂によれば、補陀落について語りうるほどのひとは、
すでにみな補陀落に溶けてしまって、
報道機関にはボウフラのようなカスだけが残っているという。
補陀落を見たひとはみな、
それが青い海に似ていると言った。
ここ200年ばかり、
海は茶色い汚泥となり果て、
青い海を見たことのあるひとなどひとりもなかったのに。
少女は、母親に黙って家を出た。
補陀落があちこちにのぞいていた。
ひとびとは、安らかな表情で、
その青い底なしの水にとびこんでいった。
振り向くと、少女の家も、はや、
補陀落のなかに溶け込もうとしていた。
少女の母はもうとっくに補陀落に身を投げたのだろう。
少女は家に帰りたいとは思わなかった。
遠くかすむ地平線に、かすかに、
赤くうごめく線が見えた。
あれがあたしの補陀落だ。
ううん、補陀落でない。
あれはあたしのあのひとだ。
少女は、歩くことしかできなかった。
食べ物も水ももう必要でないとわかっていた。
あちこちに浮かぶ補陀落を避けて歩くことは難しかったが、
どうしてもそうしなくてはならなかった。
補陀落はやさしい潮の香りを漂わせて少女を誘った。
少女は鼻を押さえ目を見開いて、
地平線のかなたににじむ赤い線を凝視した。


4.

窓辺に置かれた金魚の鉢は、
梅雨時のしめった空気のせいで
表面にいくつもの冷たい水滴をつけて曇っていた。
私はうとうとと眠ってしまい、
夢のなかでは金魚は
赤いながぐつに赤い傘の幼い男の子に変わっていて、
窓の向こうはどう見ても海のようだった。
目覚めると、
窓のそとではなお雨が降り続いていた。
静かな雨のなかに私は身体を乗り出した。
身体の安定を失って、
ふいっと落ちた。
おちた身体は湿った風にのって、
薄い紙っぺらのように上昇した。
あたりはもう梅雨時の日本ではなかった。
ツンドラ気候の大地に、
黒々と針葉樹林が広がっている。
この針葉樹林の中にも魚はいるのだ。
私は魚を探さなくてはならない。
どんな魚か思いだせなかった。
なつかしい友である金魚ではない、
夜の魚でも笑わない魚でもない、私の魚だ。
ばちんと裂ける音がした。
木のうろのなかで鼠がはぜたのだ。
でも私が探してるのは鼠じゃない。
私は暗い森のなかに踏み込む。
どこかでまたばちんと裂ける音がする。
さっきとやや音が違う。
裂ける魚が私の視界をさえぎる。
巨大なこの魚は、やや猫鮫に似ている。
ざらざらした鮫肌が、
背中の方から大仰な音を立てて裂けてゆき、
やがて腹も頭もすべてばらばらの肉塊になってしまう。
私のその肉塊の中から黄色い歯列を拾い上げる。
これをあのひとにあげなければ。
あのひとはここから遠いところにいる。
ツンドラの空から飛び立って、
また梅雨時の日本にまで戻らなければならない。
しかしどうやれば私は飛べたろう?
ここには高い窓はなかった。
上昇気流もなかった。
あるのはただ高いつっけんどんな木々ばかりだった。
私は木々に拒まれ、
もしかしたらあのひとにも拒まれたまま、
針葉樹林のただなかで
鮫の歯を握って立っていた。


自動筆記による。2002.9.01.


自由詩 姿見のうしろの物語 Copyright 佐々宝砂 2006-05-13 04:59:36
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