「優しさ」についての論考
広川 孝治

最近知人から「孝治さんっていつも優しいよね」って言われた。
自分は本当に優しいのだろうか?
優しく見られたいゆえに、優しさを演じているのだろうか?
それとも、ただ単に、弱さが優しく見えるだけなのだろうか?
ふと考えた。
そして、優しさってなんなんだろうと考えた。

本当の優しさってなんなんだろう。
優しさの定義が時代とともに変わっていくという話をどこかで読んだ。
確か「優しさの精神分析」という本だったと思う。そこで、精神分析医が、最近の患者さんを分析して、優しさ、という感情に対するとらえ方を説明していた。
その説明によると、最近の優しさとは、相手の感情に踏み込まないこと、だそうだ。
聞かないこと、かかわらないこと、余計な手出しをしないでそっとしておくこと。
それが優しさだと考えるのが現代の優しさ。
過去は、実行が伴っていたらしい。本当に優しいのなら、一時的に嫌われようがきついこと言われようが、相手のためを思って行動する。かかわる。それが真の優しさ。
しかし、今は、それがおせっかいであり、独り善がりになりかねない部分を重視して。むしろかかわらない方が優しい。そうとらえるとのことだった。

僕はその変化に。実存主義が否定されたことが関係しているのではないかと考えた。
実存は本質に先行する。人は、自分の行動によって、真の自分を見ることが出来る。
サルトルはそう主張したらしい。
そして、歴史には法則があって。最終的に正しいか間違っているかは、歴史上の法則によって判定される。
人は自分が望む望まないにかかわらず、その歴史的状況の特定の場所に位置しており。限られた情報の中で決定を下してゆかねばならない。その決定によって「自己」というものが形作られてゆく、あるいは定められてゆく。
行動を起こさないなら、それは、歴史に参加していないことになり、それはその人を否定することになってゆく。
よく判らないが、そういった考え方が実存主義というものらしい。
つまり、行動がどうしても必要である、という考え方であり、行動の正誤は歴史上の法則によって定められる。言い換えるなら、正誤、というものがある、と考えていた。

ところが、時が過ぎて、レヴィ・ストロースという人類学者は、それを否定した。歴史に法則があるのではなく、多様な可能性のうちから、たまたま現代へと流れて来たに過ぎない。時の試練に耐えたものが正であるということではなく、それらはたまたま耐えたに過ぎず、可能性としては、他のものと同じように時に流され消える可能性もあった。
浩瀚なフィールドワークにより世界の民族を観察して。彼は、「進歩した民族」と「遅れている民族」というものが存在しているのではなく、どれも豊かで優れた文化を有しており、優劣はつけられないという結論に至ったのだ。

サルトルの実存主義では、どの民族も、歴史的法則によれば、特定の方向に向かうべきであり。そこから離れている距離によって、進歩度が量られるという考えだったようだ。しかし、レヴィ・ストロースはそうではないことを論じ、見事に実存主義を葬ったらしい。

このことにより、物事に正誤をつけるということは、無意味であるという考えが広がったのではないだろうか。

かつての優しさには、バックボーンに、「真にその人のためになる」という考えがあった。それは歴史的法則、というものが存在し、正誤がつけられるという考え方に裏打ちされたものであるように感じる。

ところが、その法則が否定され。結局、生き残るのは可能性の問題に過ぎず。正誤つけがたいことが判明すると。

「自分にとって正であっても、相手にとっては誤である」という可能性が認められるようになった。そうすると、相手にかかわって自分の考えを押し付けるのは真の優しさではなく。相手の考え方や生き方を尊重して、自分と考え方が違う場合はそれに手出ししないのが、真の優しさだということになる。可能性の尊重。

実存主義から構造主義への移行によって。優しさに対する考えも変化したのだ。

しかし。

本当にそれが真の優しさなのだろうか・・

相手にかかわって、良かれと思うことを、相手の反応にかかわりなく、行なってあげる。
それは独り善がりにつながる。

しかし。相手を思いやっているつもりで、何も行動しない。
それも独り善がりにつながるのではないだろうか。

優しさを言い訳にして。ただ単に自分が傷つかない道を選んでしまうことは、人間としての弱さを抱えているなら、誰でもあることだ。僕にはそう思える。

であるなら。

自分が傷つかないために、優しさを言い訳にしてしまうことは、真の優しさと言えるのか。

それは否である。

では、どちらの考え方が、真の優しさに近いのだろうか。

相手の反応は関係なく。本当に相手の為になると信じることを行なうことなのか。
それとも。相手の反応を尊重して、行なわないのが真の優しさなのか・・

きっと、相手がどう感じるかが大切だというのが一般的な考えだろう。

しかし。人間の感覚と言うのは当てにならないもので。本人が嫌だと感じても。それが間違っているということもある。
極端な例なら。共依存がそれである。ドメスティックバイオレンスにさらされても、「この人には自分がいないとだめになってしまうから」と感じて。相手についていることで自尊心を保とうとして。結局双方とも心身がぼろぼろになるケースがある。
そんな時、別れたほうが良いよ、とアドバイスし。別れる方向に事態を動かそうと介入するなら。それは、当事者にとっては快いものではなく。場合によっては激しい憎しみを生むこともある。

では、放置するのが優しさなのか。

放置して、心身ともにぼろぼろになり。やがて、泥沼から抜け出すために死を考えるようになるのを、放っておくのが優しさなのだろうか。

恨まれても、実力行使で、引き離すようにするのが優しさなのだろうか。

この件に関しては僕は、実力行使が優しさではないかと感じる。

しかし、自分がそうできるかの話は別である。

さて。僕なりの優しさの定義をまとめると。

優しさとは行動が伴うものであり、それは相手の長期的な福祉を考えて行動することである。

では、僕はそういう意味で、いつも優しいのだろうか。

否。

僕の場合は、弱さが優しさにうつるだけである。

現代の優しさの定義では、かかわらないこと、が優しさとみなされてしまう。確かにかかわらないことが長期的な福祉につながる場合もあり、それを踏まえて信念と洞察を持って、あえてかかわらないのは、優しさだと思う。

しかし、かかわらない理由が、かかわれない・かかわることを恐れている、ということなら、それは怠惰であり、優しさではなく弱さなのだ。

僕は自分が傷つきたくないゆえに、かかわることを、本能的に恐れてしまう。当り障りの無い発言と行動で、本質的にかかわることを拒否する。

それが優しさにうつるのが、現代故なのだろう。

実存主義が幅を利かせている時代なら、僕は、「参加」しておらず。それゆえになんら発言する資格ももたず。ただ小さく小さく生きていくしかなかっただろう。

しかし。正誤の判断ができない。曖昧な現代においては。かかわらないことも優しさの一形態と見なしてもらえるので。

僕は「いつも優しい」と評価してもらえるのである。

なんと情けなく、頼りない実態であろうか。

それを自覚し。変革の願いを持ちながら。

現実にはただ足踏みするだけの自分。歯噛みし、一番悔しく思っているのは自分であるはずなのに、どこかで許容してしまい、怯惰な諦観に身を任せてしまう。

真の優しさ。熱望しながらも、強さが求められるゆえに、自分には縁の無いものと諦めている、臆病者がここにいる。


散文(批評随筆小説等) 「優しさ」についての論考 Copyright 広川 孝治 2006-05-06 10:49:52
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