異形の詩歴書 14歳冬
佐々宝砂

 お年玉の全額を本に変えるのが習慣だった。地元ではまともな本が買えないから、母の実家がある街で買った。母の実家は一応県庁所在地にあって、その周辺にはそれなりに書店や古書店があったのだ。一年に一度か二度しかそういうところに行かない私にとって、書物にあふれた店は魔法の扉に満ちた目がくらむような世界と思われた。買いたい本がありすぎて、もうどうしたらいいのかわからない。

 特に古書店は、不思議がいっぱいの魔法のお店だった。BOOK OFFのような小綺麗な古書店がある時代ではない。あまり整頓されていない店だと、アダルトな本も童話もごちゃごちゃに積まれていて、そこには一種異様ないかがわしい雰囲気さえ漂っていた。母が後ろで目を光らせていたからいかがわしい本を買うことはできなかったけれど、私はそこでひとつの宝を見つけたのだ。

 それは、ボールペンで汚したようなあとがたくさんあるどことなく薄汚れた表紙の雑誌だった。「現代詩手帖」1978年5月号、特集がファンタジーと書いてあって、メアリ・ド・モーガンの童話が載っているらしかった。すでに書いたように、私はモーガンの童話が大好きだった。私は詩が読みたかったからではなく、モーガンの童話を読みたいばっかりにその雑誌を買ったのである。

 だが、14歳の私に「現代詩手帖」は難解に過ぎた。モーガン、立原えりか、天沢退二郎の童話は理解できたし、谷川俊太郎の「いろは練習」も理解できた。だが他の文章は、何がなんだかさっぱりわからない。ランボオ、誰それ? ピンチョン、なんだそりゃ? カンジンスキーってなによそれスキーの一種?

 現在の私が現在の「現代詩手帖」を開いても、同じことである。正直なところ、何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかし、わからないことと楽しめないことは同義語ではないのだ。

 私はその「現代詩手帖」で入沢康夫の詩を知った。『「牛の首のある八つの情景」のための八つの下図』と題された、一種の習作のような詩である。そこに描かれた「牛の首」というオブジェは、小松左京の傑作怪談「くだんのはは」や「牛の首」を思い出させた。隣家が酪農を営んでいたので、私は見ようと思えばいつでも牛を見られる状況にあり、牛は恐怖の対象でもなんでもない親しい存在だったはずなのに、入沢康夫の「牛の首」は小松左京の怪談以上に私を戦慄させた。それは現実の牛の首とは関係のない、幻想世界の牛の首だった。だから、墨壺の中で燐光を放っていた。何を書いてあるか全く理解できず、なぜ怖いのかまるで推理できず、しかし私はその詩が忘れられなかった。そのような詩もあるのだということを、私ははじめて知った。

 私はこの雑誌で、もうひとり忘れられない存在に出逢った。柳瀬尚紀である。ホルヘ・ルイス・ボルヘスが著した『幻獣辞典』のパロディとして書かれた柳瀬のその文章は、14歳の私にとって、まことにわけのわからぬものだった。ボルヘスの原典を知った今とて、わけがわかるとは言い難い。しかし、そもそもがナンセンスを目的とした文章なのだから、一見どんなに衒学的でも、ナンセンスを楽しむことができればそれでいいのだ、と現在の私は考えている。だが当時の私の考えは逆だった。何だかわからないがおもしろい。おもしろいのにわからない。わからないから癪にさわった。

 ボルヘスを読まなくちゃ、と私は思った。『山海経』も、チャタレイ夫人も、フローベールも。あれも、これも、ああ、なんとたくさんの書物! 私は、おそろしくたくさんの書物を読まねばならぬことに気づいた。私はノートの表紙にでっかく読書予定表と書いて、読まねばならぬ本のリストをつくった。それは300冊近くあった。何のためのリストだったかって? 私の内奥には、すでにきっぱりとした目的があった。しかし私はそれを表だって明かさなかった。

 自分でも、その目的が何であるか、気づいていなかった。


2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス)


散文(批評随筆小説等) 異形の詩歴書 14歳冬 Copyright 佐々宝砂 2006-04-18 08:17:55
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