詩人宣言
窪ワタル

「彼、自称詩人なんだって。」よみきかせの仕事をくれた女性にそう紹介され、挨拶をしたことが二度ある。心の中で“自称は余計だよ”とおもいながら。
 
世間で「詩人」と云う存在がどんな風に扱われているか大体見当が付いている。詩人は皆、自称なのだ。現代詩文庫なんかに収録されている方達でさえ、詩だけで生計を立ててなどいないだろう。先日、国民的詩人の谷川俊太郎氏にお会いする機会を得たが、どうやら谷川氏でさえ、詩だけでは食えなかったらしいのだから、もし、詩だけで食っている方があるとすれば、銀色夏生氏ぐらいではないだろうか?

通常、肩書きとは、同時にその人の生業を表すらしく、詩で食っていない私は、やはり、「自称詩人」なのだろう。しかし、詩人とは、別に、職業でもなければ、食うための手段ではないのではないかしら?と俺はおもっている。俺は「詩を書いて朗読をします。」とは云ったが「プロです。」とか「詩で食ってます。」なんて云ったおぼえはない。音楽家にアマチュアと、プロがあるように、詩にもそれがあり得るとおもうからだ。残念ながら、詩人には「プロ」と云っていい人が少ないし、その「プロ」でさえ食えないのだから、世間ではなかなか認められないのだろう。しかし、そんなこととはまるで別のところで、私は「詩人」と名乗っている。私には詩を書くことしか出来ないからだ。詩をやめることが出来ないからだ。そう云う人間にとって「詩人」と名乗るのは自然なことなのだとおもっている。

尊敬する詩人の上田暇奈代氏が「詩人ってな、詩を書くことしか出来ひん人間のことやねんで。」と云って下さった事がある。私が「母親が死にかかっている時、いつかこのこと詩に書くな、とおもったんですよ。」と云った時に返された言葉である。私は、それ以来「詩人」と名乗っている。母親が今日、明日死ぬかも知れない時、その風景を詩のネタだと感じてしまった私は、ひょっとすると、人間としてはまともではないのかも知れない。けれど、私は事実、母の死を幾つかの詩に書いている。満足の行く出来ではないので、今でもこのテーマを持ち続け、言葉がいつかまたこのことにぶつかって、今度はもう少しまともなものが書けるようにと願っている。

「詩人」と云うのは、私にとっては世間で云う肩書きではない。生きる態度、生き方なのだ。私は、もう詩をやめたりしないだろう。楽しいわけでも、簡単に出来る自己表現の手段だからでもない。むしろ、苦しく、恐ろしい、難しいものだが、それでも、書かなければならないから、私は「詩人」なのである。

詩が、簡単に出来る自己表現の手段だとか、詩が楽しいから書いているとか云う人もあるだろう。しかし、少なくとも私は違うし、そのようにおもっている人を詩人だとはどうしてもおもえないのだ。


散文(批評随筆小説等) 詩人宣言 Copyright 窪ワタル 2006-04-17 01:59:18
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