意志でなく運命でなく(愛国心について)
佐々宝砂

最初に言っときますが、私にモラルとか良識とか常識とかコモンセンスとか(みんな似たよーな意味やん)を求めてはいけません。あと念のために言うときますが、私は、趣味のガクモンで俳句と民俗学をやり、一年に一度は歌舞伎と能を鑑賞し、梁塵秘抄と閑吟集が愛読書で、神社仏閣古刹のたぐいをこよなく愛する伝統文化尊重人間。ただし、根っからのSFマニアでホラーマニアで、60年代Rockの熱狂的ファンで、そもそも海外の音楽しか聴かない海外の映画しか見ない、本棚の七割は翻訳小説が占めるってゆー海外文化カブレ(あえて外国カブレとは書かないし、洋楽洋画という言葉も避けておく)。

海外からきたもんであろーとなかろーと、私は私の好きなもんが好き。

日本に生まれた私はケルト文化好きで、子どものときから「なんだか好きだな」と思うものがたいていケルトに属してた。その逆がきっとあるとおもう。私がヨーロッパのどこかに生まれ育ったとしたら、きっとものすんごい日本びいきだったとおもう。すごくすなおに日本大好きって言えたんじゃないかとおもう。でもその場合、私はいまみたいにすなおにケルト文化大好きなんてことは言えなかったんじゃないかな。その土地に生まれ育てばこそ、その土地の持つ確執を知ってる。アイルランドとイギリス、ウェールズのきしみを知ってる(知らないとしたらアホだろ)。自分の住む土地についての感情は複雑で、とてもひとことでは言えない。でも暮らしたことのない土地、半端な知識しか持たない土地についてなら、人は簡単に好きだの嫌いだの判断を下せる。

と、ここまで書いてきてふと思ったが、愛国心を法律で規定ってのは、めんどくさくないね。むしろその逆だね。愛する対象を法律で決めてもらうのだから、なんも考えなくてすむじゃん。国を愛しなさいそれが当然だといわれて、そうだよね、それが日本人として当たり前の義務というもんよね、と思って愛することができるのだとしたら。

でもなでもなあ、一個人を愛したり憎んだりする自分の心だってままならないってのに、nationを愛する心が自由になるかってのだ。他の人はどうか知らんが、私の心は実に不自由なので、自分が何を愛するか自分では決められん。もちろん法律でも決められん。つーか誰にも決められん。こんなとこでカミサマだの運命だのは出しませんよ。ブラウン運動で花粉が動くみたいに私は動く。自分の意志でなく運命でなくただそうなっちゃうのでそうなる。

てなわけで結論も出さずだらしなく私はおでかけするのです。好きなものは好きよ。好きなひとは好きよ。私は戦争よりセックスがしたい、自分の意志でなく運命でなく、ただ私はそういうたぐいの人間だから。

bye!


散文(批評随筆小説等) 意志でなく運命でなく(愛国心について) Copyright 佐々宝砂 2006-04-13 14:56:19
notebook Home 戻る  過去 未来