野田秀樹『贋作 罪と罰』を観る
田代深子

 この作品を観るのは初演以来2度目になるのだが、前回はドストエフスキーの原作を読んでいなかった。今回は読んでいる。そうすると、もちろん両者を引き比べざるを得なくなる。しかし意外なほどに、野田の『贋作』は原作に忠実だということがわかったのだった。ラスコーリニコフが女だったり舞台設定が幕末の江戸だったりするのも、さして違和感を感じることなく、『罪と罰』を観ている、という気がする。これはやはり原作の強さなのだろうと思う。
 一緒に観た連れに感想をたずねると「自分が一番期待していたのは、ラスコーリニコフが罪を認める場面を、キリスト教文化から離れてどう表現するかだったのだが、そのときの台詞は原作そのままだったので少し残念だった」という。〈十字路に跪いて大地に接吻〉のところだ。彼は「十字路」を当然十字架のメタファとして考えていたし、他の翻訳作品を読むときでも、いつもキリスト教圏の文学を本当に理解はできていないと感じるのだそうだ。『罪と罰』において最も重要なテーマは「なぜ人を殺してはならないのか」という問いかけそのもので、ドストエフスキーにおいてはそれがキリスト教的世界観の中で突きつめられていくのだが、野田秀樹の『贋作』では、するりとかわされてしまった感があるのだと。
 わたしはドストエフスキーの問いかけや一応の結論が、キリスト教的世界観でのみ適用されるものではないと感じている。しかし野田の『贋作』が、やけにスマートだというのは同感だ。あの長い小説を2時間ばかりに整理し再構築するのだから当然だが、原作にある些末なエピソード群がいかに全体を意味深くしているか、逆説的に証明してくれたようでもある。
 『贋作』においては、主人公の殺人と革命(=明治維新)をあまりにもきれいに重ねすぎ、ラスコーリニコフの理論に作品全体が陥ってしまいかねないほどだ。すなわち、個人の殺人が社会変革の象徴に、まさになってしまっているのが野田の『贋作』だと言ってしまうことさえできる。原作でラスコーリニコフが犯すのは、まったく無意味な殺人としてしかありえないが、『贋作』のほうでは机上の理念を踏みこえて殺人=行動を為していくことそのものが、ときに評価されてしまっている。しかも、それが男でなく女だからできたこと、とも受け取りかねない表現である。これを危うく止めているのは、じつにまっとうで徹底的な主人公の苦しみしかないのであって、松たか子の演技力はともかく、慟哭と嗚咽はストレートに胸を打ってくるようになっているが。
 原作においてラスコーリニコフを改心させたソーニャが、『贋作』において不在であるということは、キリスト教的〈愛〉の不在をも意味しており、『罪と罰』の根幹に関わるのではないか、と、酒も交えているうちに話は移行した。しかしソーニャは、たんにキリスト教的〈愛〉の表象なのだろうか。そんなことはないだろう、とわたしは主張した。彼女はキリスト自身に通じる徹底的な自己犠牲、無私の象徴ではあるが、なにも自己犠牲はキリスト教にのみ存在する美徳ではないはずだ(たとえば日本の〈武士道〉も無私の精神において評価されるべきものだ)。ソーニャはむしろ、ラスコーリニコフが求めたような“正しい理論に裏打ちされた行動により導き出される、正当な結果”を、根元から否定する存在として考えるべきなのではないだろうか。彼女が払う過酷な自己犠牲行為は、父母を救い得ず、自身をさらに苦しめていくばかりで、それに見あう成果をもたらしはしなかった。それを見てラスコーリニコフは「だから君は間違っているのだ」と言いつのるわけだが、彼女は行動を改めるわけもなく泣くばかりだ。理論など通じない相手なのである。ラスコーリニコフが〈大地に接吻〉したのは、ソーニャに説得され彼女を正しいと思ってしたわけではなかった。自分が自分の理論に正しく従わない行為によって道を踏み外し、敗北したからだと考えてのことだ。そしてあまりに苦しみが強かったからでもある。ソーニャは理論的に“正当な結果”など見通さず、自己犠牲行為にのみ没入する、苦しみを苦しみのまま丸飲みする人間である。そして結局その在り方だけが、苦しみを自己と同化して沈静させ、自身の世界を変えうるのだとラスコーリニコフが気づくのは、シベリアに行ってからのことだった。
 『贋作』にはソーニャがいない。生臭く非合理的で見苦しいほどの自己犠牲は描かれることがない。これは野田秀樹の作風としては一貫している。しかし〈罪−罰〉の即時的・論理的な因果関係、その二元論を無に帰すべき不条理である〈罪なき自己犠牲〉が存在しないことにより、〈革命−犠牲〉という応用もまた安易に物語へ導入される。『贋作』においてラズミーヒンとソーニャを兼ねる“坂本龍馬”は、「血の代わりに金を流す」ため奔走したが、最終的には主人公の罪に対する罰として、そして革命のために血を流す犠牲として、描かれるしかなくなるのである。
 野田演劇の魅力として、シンプルで美しく静動の対比が生かされた舞台演出、韻律や比喩を生かした詩的言語による台詞まわしがある。これらが骨のある構造に支えられている。『贋作・罪と罰』においては、この構造の堅牢さが原作の煩雑さを整理し観やすくした一方で、煩雑さの中にあった豊かで多様な想念が削りとられてしまったとも言える。野田秀樹自身の演劇家としての成熟が、そこに集約されるのだとしたらありがちなことであろう。


散文(批評随筆小説等) 野田秀樹『贋作 罪と罰』を観る Copyright 田代深子 2006-03-07 19:34:38
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