「静かの海」綺譚 (1〜10)
角田寿星



 1

「静かの海」に移り住んで五年
いつしかぼくは
ブロード・ビジョンに映される
地球の姿を見続けていた

何も入っていない写真立てを
そっと伏せる
ゆっくりと死んでいく巨鯨の胃袋

ドームに掛かっていた
紫色の帳が消滅し 朝がやって来る
人影が途絶えて久しい
静かな朝だ
タービンの微かな音だけが響く
ぼくは部屋のなかでソファに横たわり
あおい地球の映像の中に
幻影のあなたの姿を探している


 2

月面庭園の草花は
朝になると芽吹き
昼には背の低い花を咲かせる
(永遠の獏がそれを喰らいに来る)
夕暮れに枯れて
土に還る
ぼくはその瞬間が好きだ


 3

地球のニュースは
もうぼくの耳には入らない
諍いは極限まで縮小され
笑顔の美男美女が同じ言葉を連呼する
ぼくの声は届かない
何も言わない
ただ地球の映像だけ
眺めていた


 4

「静かの海」の隕石対策として
無人のブロックが封鎖され
硬化剤が注入された
あなたとの想い出の場所は
こうして永遠に失われた


 5

精密に区分けされた蜜柑の駅
嘗ては人に溢れた薄暮の待合室で
ふと右手が暖かくなり ぼくは
あなたへの手紙をしたためる
胸を突いてでる言葉は
あなたへの望郷の念ばかり

満開の夜の桜を思え 桜に寄り掛ったまま
動かなくなった旅の老僧を思え
眼を閉じた老僧の人生を思え 微笑したままの口許を思え
墓標に乗った天使たちが
凄まじい速度で喇叭を吹き そこにいた皆が
天井に描かれた審判の門に吸い込まれてしまった

死を飲み込むほど巨大化した闇の中で
ぼくは夜明けを探し 山を探し海を森を探す
そして澄明な輝く膜に包まれた
あなたの誕生をいつまでも待つ


 6

ボルヘスの住んでいた
部屋を整理する
古い南宗画をみつけた
しばし
画のなかに閉じこめられる


 7

劇場跡の舞台裏
どこからか光がさしている
あれはどこからの
光だろうか


 8

人気のない劇場の幕が上がる
客席は水没して
ヴェネチアの運河のようだ
色褪せた書割りの街がぼんやり突っ立っている

ぼくはゴンドラに乗って
舞台の上のあなたを迎えに行く
あなたの面影に
虚空に向かってぼくは右手を差し伸べる


 9

バンドネオンを抱えて外出する
久しぶりに移動道路を渡る
すれちがう人はいつもあらぬ方向をみつめている

宇宙港から月面に降りて 星の
瞬かない空の下 バンドネオンを奏でた
ぼくのバンドネオンは人々には聴こえない
ぼくのバンドネオンは ぼくの耳にも届かない


 10

少し前から
月面に降りて あおく輝く地球を眺める
ことが流行った

今でも人は忘れた頃に
月の大地に立って
両方の手でこの宝石を包もうとする
海猫の飛ぶ島を夢みて



自由詩 「静かの海」綺譚 (1〜10) Copyright 角田寿星 2006-02-23 23:58:42
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