ノー
モリマサ公

旦那に浮気され離婚して一年
一緒に暮らし始めて3ヶ月の妹が

「あたしなんか死んじゃったほうがいい」と泣くので
「死にたいなら死ねばいいじゃん」といったら激怒された

死なれたらこっちは死ぬほどつらいが
死にたいくらい辛くてどうにも生きるひかりがみつからないなら
死んだ方が楽だろうとおもう

というとさらにわんわん泣いた

無理をしてでも生きることに価値をみいだすのはむずかしい

生きているということはそれに値する生きることの価値とともに時々刻々と変容していく

たとえば幼稚園に通い始めた我が子を
交代で送り迎えしていた近所の奥さんに
殺されてしまえば
私はまっすぐ死にたがるかもしれない
生きていていいのかネットに問いかけるかもしれない

そういった背景をしらないひとやしっているひとが
私にさまざまなかたちでかかわってくるだろう
それらはすべてプロセスそのものである

さまざまなことをおこないながら
生きることを否定しようとすることはひどく困難だ
そういう場所で我々は永遠に矛盾していく
そこにいることができなくなったとき
はじめて生きることは矛盾ではなくなる
それがいわゆる死そのものだ

軸のないものは
死にたがれない
死にたがる人の奇妙にみえる告白はアカデミックなコンテンポラリーダンスのようなものだ
生きることそのものを軸にそれはおこなわれている





なにがそれをさせているのかということをリテラシーする







わたしは火のついたように激しく泣く妹の暗い部屋にはいってそうっとあたまをなでた



「死なれたら本当につらいとおもう」


というとなんだか涙がでてきて
それから一時間くらい一緒に泣いた






























自由詩 ノー Copyright モリマサ公 2006-02-23 04:12:34
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
かわ