海に出るつもりじゃなかった
佐々宝砂

呑んだくれた父が
血まみれになって帰宅したことがある
前歯が三本折れていて
目の周りは真っ黒だった
何がおきたか怖くて聞けなかったが
父は喧嘩をするような人間ではなかった

呑んだくれた父は
便所に落っこちたことがある
田舎のウジ虫だらけの汲み取り便所だ
深夜に便所でうめき声が聞こえたから
見に行ったら
キンカクシが半分とっぱずれた酷い状態の便所から
父の上半身が突き出ていた
クソまみれのその身体を洗ったのは私だ

朝起きたら
教科書が父のゲロでどろどろだったことがある
風呂に入ろうとしたら
父が溺れかけていたことがある
タクシー代よこせという父に
なけなしの小遣いを全部とられたことがある
道端の溝にはまっている父を見たことがある
あまりべろべろに酔っているから
頭にきてキャットフードを父に食わせたことがある

それどころじゃない
呑んだくれた父は
家蜘蛛を生きたまま食ったことがある
さすがに酔っていても蜘蛛はまずかったそうだが

まあそんなわけでさ
酒呑みなんて大嫌いだ
酒呑みなんてのはみんな大馬鹿だ
酒呑みにだけはなるもんか
本当に真剣にそう思っていたんだよ

だけど
好奇心から乗り込んだ船の
綱がはずれて海に漂っていった
古い物語があったね

あの物語みたいに
私は
出るつもりじゃなかった海を漂っている

やがて私を溺死させるかもしれない
グラスのなかの琥珀の海



2003.10.15


自由詩 海に出るつもりじゃなかった Copyright 佐々宝砂 2006-01-13 23:43:05
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