キャラメルと価値と詩について
馬場 こういち

ある日、大学の売店で飲みものを買いました。
三十九ルーブルだったので、十ルーブル札を四枚だしました。
売店のおねえさんはお釣りの一ルーブル硬貨(日本円で四円くらいでしょうか)を探しましたが、ありませんでした。
そこで彼女は奥の棚からキャラメルを一個とりだして、私の掌に置くと、にっこり微笑みました。

暖かい寮の部屋にもどるまでの間に、この一ルーブルの代わりに貰ったキャラメルを口にほうり込み、いろいろなことを考えていました。

「もし私が、甘いものが大嫌いな人だったら?」
「キャラメルにまつわるトラウマを持っていたとしたら?」
「飴やキャラメルでお釣りを支払う、
 これはロシアの習慣なのか?
 ソ連時代からか?」
「もし日本のコンビニで同じことをされたら?」
「ところで、これは一ルーブルの価値があるのか?」
「そもそも価値って?」

幸いにも、私はキャラメルのトラウマはありません。
むしろ甘いものはわりかし好きです。
なにより、咄嗟に一ルーブルの代わりにキャラメルを差しだす行為を「あ、素敵だな」と感じる人間です。
(そう感じるのは、今まで会ってきたロシア人の多くが無愛想だったからかも知れませんが。)


一ルーブルあれば、同じキャラメルが二個か三個は買えるかも知れません。
けれども、「この一個のキャラメルは、一ルーブル以上の価値がある」と、そのとき私には思えたのです。

「もしも、世界の通貨がキャラメルになったら、
 みんなキャラメルを追い求めて、
 キャラメルを必死に守り、
 遺産キャラメル相続のときにもめて、
 キャラメルを嫌いになったりするんだろうか?」

と、あれこれ考えながら、寮の部屋に着いて、

「現実、寮費の支払いが一ルーブル足りなくなったら、
 『くそ、あのキャラメルのせいだ!』って思うのかな?」

「ある日、預金通帳が『キャラメル何万個』って表示されてたらやっぱりイヤだなあ」

と、考えたりもしました。


一ルーブルの代わりにキャラメルを差しだすように、いろいろな(苦しいし辛すぎる)日常から日常以上の価値を生み出す作業が、詩の創作なのかな、と思いました。

いま私は、一つの言葉が持つ意味以上の価値を生み出せるような詩を書きたい。
あのときのキャラメルみたいな詩を書きたい。



散文(批評随筆小説等) キャラメルと価値と詩について Copyright 馬場 こういち 2006-01-06 09:36:51
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