何をリハビリするのだろう。
いとう



chori。「リハビリ」に寄せて。
(未詩・独白に投稿されたものですが、本人の了解を得ています)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58666



choriとは彼が高校生だった頃のからの知り合いで、
いろんな話もしたし、
お互い馬鹿もやってるし、
金も貸したり、返されたり、何度か家に泊めたり、
まー、そういう仲なのだけれど、
じつは彼の詩はあんまり評価していない。
なんというか、器用すぎるのだ。
あ、こいつ、わかってて書いてるな、ってのが、ミエミエなのだ。
どこかで他者を意識してしまうのは、
おそらく彼の習性で、そしてそれは、じつは、彼の苦悩なのだろう。
と、思っている。似たようなことを彼自身にも告げたことが何度かある。
(覚えているかどうかは知らないけれど)


リハビリ。リハビリテーション。


珍しく、本当に珍しく、彼の作品について言及したいと思う。
というのは、珍しく、途中まで彼の詩を読み進めてしまったからだ。
彼本来の持つつぶやきが本来のつぶやきの形として顕れていて、
「作られた」感覚が中和、あるいは緩和されているのだ。
詩とは本来、こういう場所から生まれ、形作られるものなのだろう。そういう感覚。
けれどその感覚は、途中で途切れてしまう。

> けれど あなたたちのぬくもりが
> そうさせてくれない

ここだ。
ここで感じる違和感をどう説明すればいいのだろう?
たとえば、
孵化した海亀が海へ向かう途中、ふと、カメラ目線をお茶の間に捧げるような、
そういう感覚と酷似している。
文章の表面だけを見れば、幼い人間にありがちな、単なる責任逃避や自己陶酔にも見える。が、
その奥には、
この一節を発表してしまうこと自体に、
彼自身の検閲の中で取りこぼした何かが表出してしまっているようにも感じられ、
それこそが違和感の正体としてわだかまりを生んでいる。

この違和感はなんだろう? 
肌感覚としか言いようがなく、上手く言語化できないのが残念なのだけれど、
前述の彼の習性、あるいは苦悩がここに見え隠れするのだ。
そしてそれを推し進めて考えれば、
「リハビリ」というタイトルの内面に、隠された意味として、
(そして本人も気づかないうちに)
彼自身の、無意識があるようにも、思えるのだ。
それはおそらくは、穿ちすぎなのかもしれないけれど、
記すことで、何かが生まれるような気もして。



散文(批評随筆小説等) 何をリハビリするのだろう。 Copyright いとう 2005-12-21 01:00:12
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