短歌と言う形式へのリスペクト
山田せばすちゃん

俺は文化ってのは畢竟のところ「屈折」だと思い込んでいて、たとえば手づかみで物を食い散らかすよりは箸やフォークやナイフを使う方が幾分「文化」的だと考える。
もちろん手づかみであったとしても、左手は使わないで、右手のみを使い、米や麦粉を一口大に手でまとめてカレー付けてから口に運ぶとかいう「お作法」がきちんとしてれば言うまでもなくそれは「文化」的だ。(ついでに言っとけば素手で飯を食う「文化」と手具を使って飯を食う「文化」のどっちがより高次の文化であるかなどという問題は、この際考えるに値しない、どちらも「文化」としては「等価」であることは言うまでもないからだ。)
街歩いてるお姉ちゃんをいきなり拉致って車で山林へ連れ込んで無理やり一発やっちゃうのはもちろん「文化」的ではなくむしろそれは完全に犯罪だけれども、外装だとか内装だとか巨大なスピーカーだとか電飾だとか、車にいろいろと金をかけてそれで街を流しながら「彼女乗っていきなよ」と声かけてドライブに誘ったお姉ちゃんを、センスのいい音楽だとか、かっこいい決め台詞だとかの手練手管を駆使した上で、山林に連れ込んでカーセックスで一発決めれば、それは「文化」の名に値する。
要は飯を食うだとか、一発やるだとかの欲望を充足するために、ある種の決められた段取りを踏むこと、段取りに拘束されることこそが「屈折」としての文化の本質なわけだ。
しかしながら、飴と鞭で訓練すれば、あるいはお猿の次郎君でもバナナ食うのにフォークとナイフくらいは使うかもしれないし、すべてのレイプ犯罪は死刑に処すとでも刑法を改正すれば、巷の若い衆はこぞってお姉ちゃんと和姦に持ち込む手練手管を駆使するようになることは間違いない。それでもそれは決して「文化」的な事例ではない、と俺は思う。
なぜならそこには「段取り」へのリスペクトが全く無く、あるのは「段取り」を踏まなかったことへの罰則に対する怖れだけなのだから。
すべての「文化」としての「段取り」には強烈な罰則規定は無い。そこにあるのは、行為の主体がともかくも自らの欲望を充足するのにある種の「段取り」を踏もうという意思、であり、その「段取り」以外の方法では欲望を充足し得ない、という強烈な「段取り」へのリスペクトなのだ。この「屈折」こそが真に文化の名に値するのだ、と俺は信じる。
そういう意味で俺は、飯はやはり茶碗と箸使って食わないと食った気がしないし、お姉ちゃんとは和姦じゃなきゃやった気がしない…非常に「文化人」だという自負がありますが(笑)

さて、ではこの「欲望の充足」に「自己表現」を、「段取り」に「短歌」を代入してみよう。

行為の主体がともかくも「自己表現」の手段として「短歌」を選択しようとする意思、「短歌」以外の手段では「自己表現」をし得ないという、強烈な「短歌」へのリスペクト…そういうものを感じ得ない「短歌」は全部まがいもんです。

を、なんかかっこいいテーゼになったじゃないか(笑)


散文(批評随筆小説等) 短歌と言う形式へのリスペクト Copyright 山田せばすちゃん 2005-11-17 18:47:00
notebook Home 戻る  過去 未来