詩と大脳生理学。その2
いとう


はるか昔、世間は男脳・女脳という話で盛り上がってたみたいです。簡単に言っちゃえば、
男脳は左脳右脳(特に左脳)がそれぞれに特化した脳、女脳は左脳右脳の橋渡しとなる脳
梁(のうりょう)が発達している脳らしい。ちなみに言語中枢について、男性が基本的に
左脳に集中しているのに対して、女性は左右に分布しているという測定結果もあるそうで
す。まぁ男脳・女脳という表現、そしてそれらが形成されていった経緯に対する推論など
は、多くのジェンダー、フェミニストの方々に思いっきり攻撃されているし、俺自身もそ
のへんに関して詳しいことは知らないのでここでは割愛。というか、そんなことが書きた
いから書いてるわけじゃない。

本題の前に。
その昔、金魚を使ってとても興味深い実験を行った学者がいました。金魚の脳梁をですね、
まず、ぶった切るんですよ。そうすると左脳右脳間の情報伝達がまったく行われなくなり
ます。んで周知のとおり、左脳は空間や図形を把握する機能があって、右脳は色彩関係を
把握する機能があるんですが、ここで、左脳右脳それぞれに学習させるわけです。左脳に
は、丸い輪と四角い輪を2つ並べて、丸をくぐるとエサ、四角は電気ショックという学習。
右脳には、赤い輪でエサ、青い輪で電気。これをそれぞれ片目で見させて(視神経は右目
左目それぞれの神経が左脳右脳に分かれてます)学習させた後、両目のままで、丸くて青
い輪、四角くて赤い輪を見せるわけですね。要は左脳右脳のどちらに純粋な優位性がある
のかを確認する実験だったのですが、これ、どうなったと思います?

金魚。動かなくなっちゃいました(爆)。
ぶっちゃけた話、気が狂っちゃったんですね。その金魚。
コンピュータで言えば永久ルーチンに入っちゃった感じ。堂々巡りでフリーズしちゃう。

本題に入る前にもう一つ。さっき言語中枢と大雑把に言っちゃったけど、じつは言語中枢
というのはその機能において大きく2種類に分かれています。簡単に言えば、「認識」と
「構築」。林檎を見て「林檎」という言葉を思い出す、すなわち「林檎」という言葉を介
して林檎を「林檎」であると認識する機能と、逆に、「林檎」という言葉から果物の林檎
をイメージする、つまり「林檎」という言葉を媒体に林檎のイメージを構築する機能。こ
の2種類。あー、じつは詳しくいうと、これらは必ずしも言語中枢だけによるものではな
いです。もっと複雑。

重要なのは、この2種類の機能がそれぞれ脳の中の別の部位で行われていることなんだよ
な。余談だけど、それらの機能が損なわれると、それぞれ失語症、失認症という症状が起
こります。ん、逆かもしれない。ま、いいか。

ようやく本題。詩を作るときに脳がどのように働くのか。脳梁と言語中枢から詩にとって
どんな要素が導き出されるのか。そのへんについて述べていきたいなと。

で、ここで論を2つに分けます。“詩を書く”場合と、“詩を読ませる”場合。これ、一
見同じようなんだけど、じつは全然違います。同じ詩を作者の立場で見るか、読者の立場
で見るか。詩を「作る」場合、この2つの立場からの検討が重要であるというのが俺の持
論の一つだったりする。

詩を書く場合。これはですね、イメージの言語化が重要なわけです。言葉を使ってどれだ
けのものが表現できるのか。そこにかかっている。まぁ、イメージの重要性というのは俺
が詩を書く場合のみに当てはまるかもしれない。他の人がどうやって詩を書くのがよくわ
かんないので、違うって人は、俺の個人的認識として読んでくださいませ。

イメージの構築にはもちろん右脳が作用します。この段階で言語化は行われない。言語中
枢は基本的に左脳ですから。ここで下手に言語化しながら考えちゃうと左脳で考えた詩に
になってしまう。時々俺は「概念的」という言葉を使うけど、そういった詩になってしま
う。イメージの構築時に左脳は必要ないです。というかジャマ。イメージが言葉で制限さ
れてしまう。俺の場合この段階でのイメージは色に近いのね。色といっても確立された色
のイメージではなく(イメージに色の名前を与えちゃうと、そこで言語中枢が働くので)、
色の一歩手前といった感じ。ここはまぁ、アタリマエだけど言葉では上手く説明できない
(笑)。俺はここの段階でけっこうウダウダやります。言葉にする前の段階でイメージを
煮詰めてしまう。

というわけでその後、構築されたイメージが脳梁を通るわけです。言語中枢が働くのはも
うちょっと先。というかほぼ同時進行になるけど。ま、脳梁を通るということは、右脳と
左脳の連携、すなわち脳梁のパイプの太さや性質が詩の良し悪しに絡んでる。構築された
イメージをどれだけ忠実に、リアルに言語中枢へ持っていくか。まずそこが大切。

で、伝達して初めて言語中枢が働きます。ここで働くのは基本的に「認識」の機能。文字
どおりイメージを言語として認識し、表現する作業です。でですね、俺が勝手にに思って
るんだけど、まずここでね、(狭義における)詩と(いわゆる)ポエムのアプローチ方法
が違うんじゃないかなと。言語化するための方法論がここで異なってると思う。大雑把に
言うと、詩においては特化あるいは具象化が行われ、ポエムにおいては一般化あるいは抽
象化が行われる。「何を書くのか」ではなく「どう書くのか」において、詩とポエムの分
別がなされているのかもしれないです。んで、この言語化の過程において個々のスタンス
やスタイルが確立されてます。たぶん(笑)。そして蛇足で言っておくと、ここでは別に
詩とポエムどちらが上、なんて話は全然してないからね。誤解のないように。

あとねぇ、ここで脳梁を通じてのフィードバックも起こります。言語化されつつあるイメ
ージが、その言語そのもののイメージによって変形していく。これは前述したイメージの
制限ではなくて、んー、イメージの補強、あるいは補正かなぁ。そんなのが起きる。これ
も詩の深みや厚みを出すために必要不可欠な過程だと思ってます。

次。詩を読ませる場合。これは簡単に言えば、読者がその詩をどのように読むのかを考え
る作業です。というわけでここでは必然的に「構築」の機能が用いられる。

読者はね、あたりまえなんだけれど、言語から詩の世界を構築するわけですよ。「詩を書
く」場合とは逆の過程を経ます。ということはすなわち、書く場合とは異なった言語中枢
の機能が用いられるわけです。ここがポイント。使われる機能が違うので、書く立場と読
む立場で詩の受け取り方が異なってくるのは、これはもう当然のなりゆきです。詩が作者
と読者をつなぐイメージの変換装置になってるとも言える。そこがわかってないと、読者
が読んでわけわかんない詩が生まれちゃいます。

ということで、詩に対する受け取り方には作者と読者の間で必ず「ズレ」が生じるわけで
す。このズレを修正するにはどうするか、すなわち、作者のものとしての詩に読者の印象
を近づけるにはどうすればいいのかを考えると、やはり、作者自身が、作者のものとして
の詩を作者からいったん引き剥がして、読者の立場でその詩をチェックする必要があるわ
けです。ぶっちゃけた話、推敲です(笑)。うん。推敲は大切だと思うよ。俺は。

で、無闇に推敲してもしょうがないよってのは、ここまで読んでくれてればわかると思う。
要はね、作者の立場でどれだけ推敲しても、それはあまり意味がないんじゃないのかなと。
自分がその詩に何を込めたのかをきちんと理解してもらうためには、やっぱり読者への歩
み寄りが必要なんだよね。もちろん「歩み寄り」ってのは「媚」や「妥協」とは違うから
ね。逆に、作者の立場だけで考えて「読者がわかんなくてもいいや」って思っちゃうこと
の方が「妥協」なんじゃないの? あと、「だったらもっと普遍的なものを書けばいいじゃ
ん」という方向性に進むと、ポエム化の道を辿るのかもしれない。ポエムを毛嫌いする人
は、おそらくそういう観点でポエムに「媚」みたいなものを嗅ぎつけているのかもしれな
い。実際に媚びているかどうかは別として。

んでまぁ、ここまで書いたところで、「んじゃどうすれば自分の詩を読者の立場で読むこ
とができるの?」という声が聞こえてきそうなのですが、これはもう、鍛錬です。鍛錬し
かない。俺自身は、書き終わった時点でいったんその詩を放棄して忘れた頃に読み返しま
す。まっさらな状態で読めるから。そうやって読むとかなり違和感のあるところがいっぱ
い出てくる。内容面でも、構成やリズムにおいても。で、それを修正していくわけです。

あとね、他の人の詩を読んでください(笑)。それはもう、いっぱい読めば読むほどいい。
で、その場合、今度は逆に読者の立場でのみ読むんじゃなくて、作者の立場ででも読んで
みる。作者がどういうイメージを言葉に託したのか。言語中枢における「認識」の機能が
どのように働いてこれらの言葉が生まれたのか。そうすると「ズレ」の正体、あるいは
「ズレ」の構造が見えてくるんですよね。そして、そういう能力が身に付けば、これまで
難しいと思ってた部類の詩も読めるようになってます。自分の中での詩の世界が広がりま
す。まぁ、そういう鍛錬はやっぱり、言語化するという作業が非常に重要で有効なのね。
つまりね、感想や批評を実際に書いてみる。そゆことです。他の人の詩に感想書いてると
自分の詩も上手くなります。これは経験から保証する。絶対です。




散文(批評随筆小説等) 詩と大脳生理学。その2 Copyright いとう 2005-11-11 19:23:58
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