詩と大脳生理学。その1
いとう


大脳生理学と大きく出たけど、実際のところ俺も脳のしくみについてそんなに詳しいこと
は知らない。一般常識程度。というわけで一般常識程度の大脳生理学の知識によって詩に
どこまでアプローチできるかいろいろ考えながら書いてみよっと。ということで、詳しい
人は頼むからつっこまないでくれ(笑)。

ずっと昔に雑誌で読んだ海外の論文の翻訳の中で、人間の意思決定には必ず感情がつきま
とうという話があって、これは感情的な判断だけでなく、理性的な、たとえば数式を解く
時などにもつきまとうという話らしい。俺のおバカな頭で思うに、これは記憶の話と関係
してるのね。人間が物事を記憶する場合、大雑把に言って3種類の段階があります。超(
スーパー)ショートタームメモリー、ショートタームメモリー、ロングタームメモリーの
3つ。めんどくさいのでそれぞれSSTM、STM、LTMとします。

ま、知ってる人は知ってるので知らない人向けに説明すると、SSTMは数秒で忘れちゃう
記憶。たとえば口頭で電話番号を聞いてそこに電話しました。で、電話が終わったあと、
その電話番号覚えてる? 俺は覚えてない(笑)。そういうのがSSTM。STMはもうちょっ
と長い。数日くらいで忘れる記憶。1週間前に何食ったかなんて、普通は覚えてない。
そういう記憶。LTMはずっと脳の中に蓄えられる記憶。子供の頃のこととか、初めてのえ
っちの記憶とか(笑)。

で、基本的に記憶化の過程には、脳の中の海馬(かいば)という部位が働いてんのね。ま
ずそこで情報がチェックされて、残しておくべきと判断されたもの、あるいは強烈な印象
を伴ったものがLTMとなる。LTMがどのように蓄えられているのかは諸説あってまだはっき
りとわかってないそうです。ちなみに強烈な記憶というのは楽しい記憶ばかりじゃない。
トラウマとかPTSDとか、そういうのもある。だけど脳というのは面白いもので、そういう
記憶を無理矢理LTM化するのと同時に、その記憶を隠したり捻じ曲げたりするのね。そう
やって緩和してる。

記憶の話ばかりしてもしょうがないな(笑)。んで、海馬の近くに、あー、なんて言った
か忘れたけど、原始的な好悪の感情を司る部位があって、知覚されたものはすべてそこを
通るのね。その部位を通ると同時に海馬でそれが記憶されて、判別される。逆にLTMとし
て記憶される時に、その部位での好悪の感情も併せて記憶されるらしい(このへんは諸説
あり)。ちなみにこの好悪の感情の形成にはニューロンやシナプスがおおいに関係してい
て、ぶっちゃけた話、好き回路をたくさん通ると好きになるという極めて単純なカラクリ。
月に1回デートするよりも、毎日メール交換してる方が恋人になる確率は高いのだよ(爆)。

さてさて。ここでようやく詩の話。原始的好悪の判断と詩を書くという行為について。論
として2つに分けます。まず、詩を書くという行為そのものに関する好悪。そして、書く
内容、主題に対する無意識的好悪。この2つ。

まず最初。極端に簡単に言えば、「あなたは何故詩を書くのですか?」という質問ですこ
れは。詩を書く書かないの分水嶺がどこにあるのかを生理学的に捉えた場合、絶対にこの
部位が関係していると考えてる。俺はね、詩なんか書かないで生きていられた方が絶対に
楽だと思ってるのね。だけど詩を「書いてしまう」のは、詩を書く人それぞれの無意識に、
そういった原始的好悪の判断があるからなんだと思う。書かないのは、あるいは読まない
のは、何らかの原因でマイナスへ傾いているのか、まだその部位を伝ってニューロンが形
成されるまでに至っていないのかのどちらか。

で、詩を広く読まれるものにしたいと思う立場から考えた場合、じつはここに重要な要素
が隠されているのね。この好悪の判断は基本的に外部刺激によって形成されるので、詩に
対するプラスの感情を継続的に発信することができれば、それはそのままそういった道へ
つながります。で、余談だけど、「プラスの感情の継続的な発信」をどのように行うかは、
じつはマーケティングの手法に頼るところが大きいとも思っています。

次。内容と主題について。これは「あなたは詩において何をどのように表現したいのです
か?」という質問。主題とするものがこの部位と関連してるというのはまぁ、ちょっと考
えればわかるのだけれど、そういう単純な話がしたいわけじゃないです。それを前提とし
たうえで「何をどのように表現すべきか」という問題についてです。観察力と表現力の話。

作者が主題とするものは、内部からの想起にしろ外部からの刺激にしろ、必ずその部位を
通過します。そこで問題になるのは、通過した場合の好悪の判断が、深い部分では千差万
別のものだということなのね。ニューロンやシナプスの状態が同じであるわけがないから。
ちなみにここでの好悪の判断というのは、理性的な判断ではなく、あくまでその部位にお
ける原始的な判断という意味合いです。間違えないでね。んで、その千差万別を無視して
書いちゃうと、これは結局のところ自己満足につながるのね。あくまで無意識レベルでの
話なんだけれど。でも、その無意識は詩作において、少なくとも俺自身は無視できないで
す。で、無視しないという無意識的行為は、観察力と表現力につながっていきます。んー、
わかりにくいかなぁ。説明がなんか下手だなぁ…。

んと、千差万別であるということは、詩の内容や表現手法において正しいものが存在しな
いという話につながると同時に、千差万別であることにのっとった手法も存在できるとい
う話につながります。すなわち、読者の原始的好悪の判断にまで無意識レベルにおいて思
考が及ぶと、その詩は素晴らしいものになるのではないのかなと。逆に言えば、世の中で
素晴らしい詩と言われているものにはそういった要素が含まれているのではないかと考え
てるのね。

もちろんそれが読者に媚を売ってるわけじゃないのは賢明な皆様にはおわかりでしょう。
さらに、「のっとった手法」が「共通認識」に依存しているわけではないことも経験的に
おわかりでしょう。「共通認識」に依存する手法は(狭義における)詩ではなくてどちら
かと言えば(いわゆる)ポエムの手法に近いのかもしれない。(もちろん別にポエムを貶
しているわけではなく)

で、そのような要素がどこに表出するかといえば、それはもう、主題の掘り下げと手法に
他ならないんだよね。俺は批評とかで、特に構成や手法といった技術的部分について言及
することが多いけれど、そしてその点について時々誤解されるのだけれど、それは別に
「詩は技術によって“構築できる”」と考えているわけじゃないのね。そんな小手先で魂
の発露に迫れるわけがない。そうじゃなくて、魂の発露といったものを「(理想としての)
完成された詩」により近い形で形成しようと考える場合に、技術が、そして技術を理解し
て把握するということが、とても重要なものだと考えているわけです。この次の「その2」
で書くんだけれど、詩は右脳だけで書けるものではないし、左脳だけで作れるものでもな
いということです。
とまぁ、次への前フリも出てきたのでこのへんでおしまい。




散文(批評随筆小説等) 詩と大脳生理学。その1 Copyright いとう 2005-11-11 19:23:20
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