ボレロに耐える−めざせ最強ミーハー
佐々宝砂

世の中は変わってゆくけど、変わり方はおっそろしくのんびりしていて、どこがどう変わっていくのかよくわかんない。ちょっとずつ変わりながら繰り返し繰り返し続いてゆくボレロのよう。詩もそう、音楽もそう、物語も、映画も。すべてがボレロ。私は、ボレロに耐えなきゃならない。どこかで見たような議論。どこかで読んだような、自分自身も書いたことのあるような、それどころか閑吟集にすらありそうな、単純な恋唄。盛り上がるかに見せて終わりもせずまた下降し延々と続くこのボレロに、あなたは耐えなくてもいい。ボレロに耐えるのは、ボレロに耐えることによって旋律のわずかな変化を見つけて狂喜するのは、単なる私の個人的な趣味だから。

自分で消化できていないので、きっと私の言うことには矛盾がある。自信持って言っちゃうけど、私は正しくない(笑)。理論武装もしませんよ。わざとやらんのです。私はミーハー読者で、だけどミーハーこそは最強なのだ。理解しなくてもいい、間違ってもいい、バカでもいい、善悪の悪の側でも善の側でもどーでもえーわい、好きなものは好きなのだ、私は何かも好きで何もかもを面白がるつもりなのだ文句あるか、と思ってるんだから、ミーハーを非難することは不可能である。批評分析することは可能ですけどね。ええ。でもその際には、わたくし、批評分析をも面白がる予定です。

ふつーのミーハーは何かを好きになればそれで済む。でも、何もかも面白がるつもりの最強ミーハーになるためには、それなりの修練や学習が必要だ。最強ミーハーは、小学一年の生活科の教科書を読んでも喜ばなきゃいけない。インターネット上のポエムを読んでも喜ばねばならんし、映画「北京原人」を観ても喜ばねばあかん(ま、ネットの詩はいくらなんでも「北京原人」ほどにはひどくないので同列にするのはあまりに失礼なんだけど許して)。私は大バカに耐える鈍感さと、キッチュなものを見つけて大喜びする無責任な鋭敏さを養わなきゃならない。むろんバカなものだけを相手にして喜ぶのではただのアホだから、きちんとした教養も身につけなきゃいけない。古事記を読んでも喜ばなきゃならない。現代詩手帖を読んでも喜ばなきゃいけない。古典や優れているとされる芸術の中にバカを発見し、流れゆくネットの使い捨て文章のうちに宝石を発見する、それが理想だ。あなたがそうする必要はない(やってもいいけどね)。私が喜ばねばならんのである。なんのために? さあ。私がそうしたいから。大喜びでのたうちまわりたいから。何もかもを好きでいたいから。


散文(批評随筆小説等) ボレロに耐える−めざせ最強ミーハー Copyright 佐々宝砂 2005-11-10 18:08:51
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