石川和広詩集『野原のデッサン』を読んで
窪ワタル

まず、この文章の性格について前置きしておかなければならない。
この拙文は、批評などという立派なものではなく、感想文である。
文中『あとがき』から若干の引用はあるが、作品そのものからのそれは行なわない。

理由は二つある。
一つは、そのような手法で作品について語るのは、優れた解説者や、批評家諸氏の仕事であり、私ごとき者が出る幕ではないとおもう。
二つ目は、これからこの詩集を手にされるかもしれない幸運な読者諸氏に、なるべく余計な先入観を持って頂きたくないからである。

この拙文が、この詩集に未知の読者諸氏の手が伸びるための、ささやかな助力になれば幸いである。少なくとも、邪魔にはならないようにと祈っている。


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この詩集は、秋から冬に向かう風のようだと私はおもった。
個々の作品によって、当然、趣が異なるが、そこにあるのは、素朴な暮らしの発見である。発見と云っても、特に取り立てて目新しい何かではなく、極々ありふれた日常の事象や、心情の「再発見」である。
詩人は、ただ、素直にそれを観察し、書き起こしたのだとおもう。日常というのは、そうそう取り立てて心騒ぐような事象に溢れてはいないものである。うっかり暮らしていると、その輪郭さえも薄ぼんやりとして行き、捉えて言葉にすることなど覚束なくなる。
だが、詩人はそうではなかったのだ。それは、意識的にそうしたと云うより、詩人にとってそれは、まったく自然な行為であったのだろう。
詩人はそれを「デッサン」と呼び、詩作とは「呼吸の形をたどる」ことであり「速い息、ため息、深呼吸、あくび、色んな呼吸のリズムがある」と、自作を振り返っている。
“なるほど軽いわけか”と私はおもった。個々の作品で扱われた主題のそれぞれが“軽い”とはおもわない。むしろ、モチーフとしては、重い部類に入る詩が多いとおもう。
しかし、詩集全体の印象としては“軽い詩群”という感じがある。これは、はたして何処から来る“軽さ”なのか?おもうに、それは詩人の「虚栄心」の希薄によるものではないかと私はおもう。「何か後ろめたいモノ」或いは「恥ずかしいモノ」を見せてしまったような居た堪れなさに近い。だが、それでも曝け出さずに居れない、一言で云えば「実直さ」が「軽さ」になって表れていて、それが不思議な磁力を発している。

まるで後から吹き付けたような嫌な重々しさがまるでない。それが、詩人いわく「呼吸」の「デッサン」なのかと、心地よく得心が行く。丁度、夏場は湿って重く纏わり付く風が、秋から冬にかけて、ゆっくりと乾いて軽くなるような、だが、物悲しく、深い寂しさや、無垢な優しさ、少年のような、時に破壊的な正直さが、詩人の息づかいとして通ってくる。

実直であることは、簡単ではない。自己との対話を日々積み重ね、日和の良い日も、雨の日も風の日も、揺れ続ける内心から目を逸らす訳には行かないからだ。
ありのままに書こうとして、書けているところも、書けないでいるところも、言葉にして定着させることで、すべては詩人の再発見して作品化されているようにおもう。

作品化した以上、それはもう発見したとは別のモノである。けれど、それが「不作為」ででもあるかのように、無理なく頬に触れてくる。


散文(批評随筆小説等) 石川和広詩集『野原のデッサン』を読んで Copyright 窪ワタル 2005-10-29 15:36:42
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