(ほぼ私的日記)〈美術館〉『竹中英太郎記念館』 2005/08/12
白糸雅樹

 甲府の観光案内所に置かれているチラシのなかにその絵はあった。沖縄風の少年とも少女ともつかぬ顔立ちの美しい横向きの人物像。服装や表題からは女性なのだろう。天野喜孝をさらにエロティックにしたような絵と言おうか。あるいは、刺青(これは絶対に「いれずみ」ではなく「ほりもの」と読んでほしい。)が人の肌の代りにチラシに描かれていると言ってもいい。

 裏返せば、小さく載っている他の絵も、なんとも好みのものが多い。好みということでは、表に大きく刷られている絵より好きなものが多く、これはちゃんとほんものが見たいとチラシを取って帰った。その晩、宿で連れにチラシを見せると、「あなた、これ誰だか知っているの? 竹中労のお父さんだよ」と言う。竹中労といえば、連れから『断影−大杉栄』を借りて読んだ。それまで大杉栄に関する本を何冊か読んだなかに出てきていることと重複する部分も多かったが、書き方がとても良いな、と思って好きになり、図書館で『琉球共和国』を最近借りて読み、この人についてもっと知りたいと思っていた矢先のことだった。

 その竹中労が、年譜によると『新青年』に描いていた竹中英太郎と親子だということも興味深かったし、なにより実物を見たいと思わせてくれる絵ばかりがチラシに載っていたので、翌日、県立美術館と県立文学館の見学を駆け足ですませて(とは言っても他の人から見ればしっかり時間かかっているんだろうな。)、とことことこの記念館のある湯村に出かけた。

 チラシの地図とバスの路線図を見比べて、甲府の駅でバスを乗りかえる前に電話で、最寄のバス停や行き方を問い合わせた。昼飯を食べていないのではらぺこだったが、駅前で食べるよりまずバスに乗ってしまった方が時間のロスが少ないし、温泉街なら店はあるよという連れの意見で、ちょうど発車寸前だったバスに乗った。

 ところがバスを降りて歩けども歩けども店がない。ないわけではないのだが、みんな閉まっている。うっかりしていたが、ちょうど時刻は昼食時は終わり、夕飯には早い中途半端なあたりで、東京と違い、みんな準備中なのだ。しかも、店を捜すのと同時に記念館に向かう道も確認しようとしていた連れが、どうも記念館に行く道が右に入る筈なのに道など見なかったという。迷子になっては困るので、連れがもう一度記念館に電話して、行き方を確認した。なんのことはない、店を捜すのに気を取られて、細い道を見落としていただけだった。

 てくてくとかなりの距離を戻るとき連れが気づいたのだが、記念館の閉館は四時。ところが時間は三時をとうにすぎている。肝心の絵を見そびれては困るので、食事抜きで記念館に向かうことにするが、糖尿病を抱えた連れが低血糖で体調悪化しないか心配だ。ふと見れば私たちは病院の横を通りすぎたばかり。病院の売店にはなにか食い物を売っているだろうと思い、「先に行ってて!」と叫んで駆け戻り、病院に飛び込む。都心の病院と違っておにぎりやサンドイッチの類がなかったのはあてが外れたが、せんべいが何種類かあったので一袋買い、連れを追いかける。

 と、連れが道を戻ってくるところではないか。病院の売店に行く時に、私が地図を持っていってしまっていたので、これは道を間違えたか見落としたのではなく、まっすぐ行けばいいのだと地図を見せながら主張して、どんどんと行くのだが、町名表示がチラシに記載されている所在地とは全然違う町になっている。「ごめん」と謝って引き返し、殆ど病院の近くまで戻って町名表示が記念館のある「湯村3丁目」になっているところから連れがまたもや問い合わせの電話をかける。

 回りに見えるものなどを話して、横で聞いている私が、「あ、これなら道が判ったかな」と思った頃、横を通った一台の車が停車して、「竹中英太郎記念館にいらっしゃる方ですよね?」と尋ねてきた。なんでも、問い合わせから一時間たっても現われないので、道に迷っているのではないかと心配して話していたとか。

 時刻がもう閉館の四時になっていたので、最初、職員の人が帰る途中でみつけて拾ってくれたのかと思いかけたのだが、車に乗って話すと、どうやらお客さんで、で、見おわって帰るところで、いかにも迷子の風情で電話しているのを見て声をかけてくれたらしい。

 うーん、なんという親切さ。というかなんというアットホームな世界。

 車ですぐ近くだった記念館まで送ってもらい、礼を言って降りると、入り口のところに大きく看板が出ているものの、小さな、まるで民家の風情。迎えに出てくれた女性に、遅くなった詫びを言いつつ大慌てであがりこむ。入り口では靴を脱いであがることにも最初気づかないぶざまさで。

 もう閉館時間を過ぎているのに、「ゆっくり見ていいですよ」と親切に言ってくれる。最初に名刺をくれたので、もしかして竹中英太郎の関係者の人なのかな、とは思ったのだが、普段、画家や読んでいる本の作者にさんづけをしないので、その人の前でも「竹中英太郎」「竹中労」とさんをつけずに固有名詞として言葉を使ってしまい、その人(館長)が竹中労の妹さんであることを知って、なんだかひどく恥ずかしくなる。(だけど急にさんづけってできないんだよー)

 「ゆっくりでいいですよ」というのは社交辞令ではなく、ほんとうにぜんぜんせかさないで見せてくれて、しかも見ているとその絵のエピソードを話してくれたり、椅子を勧めてコーヒーやお茶を出してくれたりしてとても恐縮だった。

 もとは本当に住まいだったという建物の一階には私がチラシを見て惹かれた『花電車の女』など数点と『新青年』などのコピーのファイル、雑誌など。(これで、初出時どのような場面の隣に絵が出ていたのか判るのでむちゃくちゃ興味深い。挿画と組み合わされた小説も、挿画のあるページだけではなく全部読めるし。)

 二階には二部屋。階段をあがってすぐの部屋は、やはり彩色のしてある絵が数点と、初出時のレコードジャケットや本などの展示。装丁された状態と、原画を見比べることができるという、なんとも贅沢な環境。長く筆を折っていた英太郎が、再び絵筆を取るようになったのは竹中労プロデュースのレコードジャケットや著作の装丁の為の絵を描くことからだったという。

 二階の奥の部屋には、『新青年』時代の挿画。連れいわく、乱歩の作品にはずいぶんと話があらくてつまらないものが多いので、挿画が入っているほうがずっと面白かったのではないかとのこと。私もそう思う。今、乱歩を読むと、ストーリーや人物造形の荒さがめだって退屈することがあるのだけれど、乱歩のおもしろさはきっとあの世界を創り出すところにあるので、それを目に見えるかたちにした挿画があると、ずいぶん違ったろう。それほど妄想を掻きたてられる絵なのだ。

 一階から二階の最初の部屋に上がっていった時に、私はぱっと、「新青年で有名だというけれど、この人の絵柄には乱歩より夢野久作のほうがより合っている気がする」と言ったのだが、奥の部屋の新青年時代の絵を見て、さらにそう思った。

 二階手前の部屋にある作品の何点かは、『戒厳令の夜』という映画で使用するために描かれた絵だという。このうちの『少女像・a』は、サディズムマゾヒズムの性向のあまりない私でさえ、なにかそのような欲望をそそられずにはいられないエロティックな絵だ。きちんと黒っぽい服を着て、髪をきっちり乱れのない三つ編みにした少女が、なにかに耐えているかのような表情でこちらを見つめているだけの絵なのだから、これにエロを感じるのは私がいやらしいからだと言われてもしかたがない。実際、縮小された絵葉書やチラシからは、そういうものは感じられない。しかし、実際にこの絵の前に立つと、この黒っぽいマントに似た服の下で、この少女が何に耐えているのかと、もっといじめてみたいような、あるいはこの少女になりかわって誰かに責め苛まれたいような、葛湯のようなぬるりとした欲望がみぞおちを這いあがってくるのを感じずにいられないのだ。
  (この部分、遺族であるこの記念館の館長さんには絶対言えないなぁ。だいたい、わたし、『戒厳令の夜』って映画は見てないし(見たい!)、原作は図書館で今日借りてきたけれど未読だし、映画撮影にあたっての絵の扱いに関しては、作者の意に染まぬ部分があったらしいとプロフィールに書かれているし。(具体的には、損傷された絵があったという点に関してだそうだ。)でもまぁ、作品なんてものは作者の意図を離れて妄想を膨らませるのよね。これは、ネットという誰でも読めてしまう場に発表するからの、私の見苦しいイイワケね(笑))

 おなじく『戒厳令の夜』の為に描かれたという『哀しみのマリア』からは、私は幼時に虐待を受けた人の話を読んでいるときと同じ印象を受けた。

 よく見ると、新青年時代の絵と、後年描かれた彩色画で作風は違うのは勿論、戒厳令の夜の為に描かれたものと、同じころに他の用途で描かれた絵では微妙だが大きな作風の違いがあるし、乱歩の作品への挿画の土臭さと、沖縄を題材にした後年の彩色画の繊細さまで、幅広い作風を使い分けることができる人なのだな、と感じた。

 一階の、『あやかしの鱗粉』という絵に見入っていると、「これはもともとこういうポスターに使う為に描かれたんですよ」と、館長さんが額に入ったポスターを出してきてくれた。『あやかしの鱗粉』は黒い地に白っぽい虹色の蝶が斜めに描かれた絵で、その触角の毛の感触まで判るような感触に引き寄せられていたのだ。ポスターは、マレーネ・ディートリッヒが来日したときのディナーショーのポスターで、白黒のディートリッヒの写真の、白っぽいハイヒールを履いて片足だけ腿から下が白くあざやかにむきだしになっているその付け根のところに蝶がカラーで描かれている。

 蝶の色合いと位置が、ディートリッヒの脚線をひきたてていて、とても素敵なポスターだった。こうしていろいろ話してくれたりすることも含めて、美術館に行ったというよりは、個人のお宅にお邪魔して絵を見せてもらうという感じだった。実は、連れが食事を記念館の近くでと主張した理由のひとつに、食事でお酒を呑んで適度に酔って見ると殊に味わいが深まる絵たちだから、という理由があったのだが、つくづく店が見つからず素面で行って良かったとほっとした。

 いくら気兼ねなく閉館時間過ぎて見せてくれると言っても、おのずと限度があるので、心を残しつつ帰ってきた。一階の自由に見られる資料で読み耽りたいものも、新青年のコピーだけでなく竹中労の出ている雑誌もあったし、絵も何時間見ていても飽きないし、いろいろ読んでふと目をあげたらあの絵たちがあるというのもとても楽しみ。

 次回甲府に行くときはここで一日使うつもりで行こうと思っている。

 所在地や電話番号など、他のサイトにも随分出ているので、転載してしまってもだいじょうぶそうだな。
『湯村の杜 竹中英太郎記念館』10:00〜16:00 火曜水曜休館
 入館料:高校生以上300円 小中学生200円
 甲府駅南口より山梨交通バス利用15分(湯村温泉方面)
 〒400-0073 山梨県甲府市湯村3−9−1  tel.055−252−5560

                            2005/08/18

追記:

 先程、五木寛之の『戒厳令の夜』を読み終えた。パブロ・ロペスという架空の画家の絵が出てくるので、竹中英太郎の絵はそれに使われたのだろう。ピカソと同列に並べてもよい画家として登場。私が妄想に駆られた少女像は、小説と読み合わせると、どうやらジプシーの少女らしい。とすると私がマントだと思ったのはショールで、あの表情は民族の苦しみをあらわしているんだろか。

                            2005/08/20


散文(批評随筆小説等) (ほぼ私的日記)〈美術館〉『竹中英太郎記念館』 2005/08/12 Copyright 白糸雅樹 2005-08-20 10:59:43縦
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