つれづれ2
いとう




「ところで、アンビパンツというのをご存知ですか?」


というセリフが内田春菊の4コマ漫画か何かに出てくるのだが、
正解はもちろんアンビバレンツである。


まったく相反するものが同時存在したり、
重ならないはずのものが重なっていたり、
そういうことは世の中によくあって、
じつはそういうのがとても好きだったりする。

アンビバレンツしかり、
ダブルスタンダードとか、
量子力学とか(謎)。

グローバルスタンダートとかは嫌い。
それぞれにいろんなやり方があるんだから、
押し付けなくてもいいと思う。
こういうやり方もありますって、提示するだけでいい。


作者と読者、
詩に対する立場を敢えてこの2つに分けるとすれば、
このアンビバレンツな立場が同時存在するためには
ある面でダブルスタンダードが必要であり、
かつ、量子のように重なり合っていると思っている。


作者と読者はよく対立する。
実際に複数の人間が対立するのではなく、
この2つの概念が1人の人間の中で対立することがある。
作品に対する基準が異なるからだ。
作品に対する思い、へ向かう姿勢が根本から異なっていて、
それぞれの意見交換の中で葛藤が生じる。
内部で上手く処理するためには、
ダブルスタンダードを敷いたほうが早い。
基準を統一して処理しようとすると、
いつまでたっても詩なんか書けない。

何かすごく、概念的で抽象的な話をしていると思う。
困ったもんだ(笑)。読んでいてわからない(笑)。


あくまで自分自身のスタンスなのだが、
作品を作るとき、そして発表するとき、
読者の存在(あるいは概念)を無視できずにはいられない。
読者を意識するからこそ、作品が成り立っている。俺の中では。


そしてこれはもちろん、ひとつのスタンダードに過ぎない。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=4523にあるような

「地獄の言葉は、表現手段ではない」

という言葉にもひどく反応し、共感する。
これはこれでひとつのスタンダードであり真理であるから。

それぞれを異なったスタンダードとして認めることが、
ダブルスタンダードへの道であり、
かつ、それが“ひとつの”人間、グループ、社会、などの中で
同時存在しているのがアンビバレンツな状態なのだろう。


そして、ひとつのスタンダードを拠り所として、
他のスタンダードについて言及することは、
それはまったく意味のないことだと思う。
作品の成立に対して読者が不必要だと考える人も当然いて、
その立場に対して必要とする立場からどうこう言うのはまったく無意味で、
逆もまたしかり。
つねに、自分がどこに立っているのか、わきまえていたい。

否定する前に認識したい。
否定は認識の後に発生するものであり、
かつ、ひとつのスタンダードでのみ認識を行うのは
とても危険な行為だと思っている。




散文(批評随筆小説等) つれづれ2 Copyright いとう 2003-12-23 12:25:08
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