「詩」さんは何を求めているのかー「詩と”私”を切り離せ」を読んで
石川和広

「詩と”私”を切り離せ」こういう大胆なタイトルはなかなか書けないものだし、あざとく見える危険もある。よく書いたと思う。http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42653

その大覚アキラさんの批評が今見ただけでも、75点獲得して月間ランキングの1位を獲得している。批評が75点とるのは初めてではないかな。こういう事態に反応するのはむずかしい。僕は点をいれてないけど、たくさんの人が点を入れている。こういう事態が、生じるのは何でかな?どうしてポイントを入れているんだろう。いろいろ考えるが、なかなか答えは出てこない。点入れた人にも色々考えがあったり、面白いなと思って入れたり、引っかかりを感じたり、、、

この批評の目立った点は、まず「こういう詩を書きたい」、そういう観点から書かれている点だと思う。徹頭徹尾個人的意見として。「方法」から入っている。
それが、フェアさ、難しくなさを文章に与えている。
第二に「こう読まれたい」、が書かれている点である。当然書き手としては「読まれ方」がきになる。「読まれたい」書き手の気持ちをつつく刺激的な批評だ。
というわけで、この批評は純粋に一書き手の立場から書かれていて、批評が難しいものと思っている方々、あるいはそうでなくとも、清新な批評だ。
僕は詩集を作ったが、どう読まれるか楽しみである。というか死活問題だ。しかし、読み手に
「詩」の既成のイメージがある限り、詩はそうよまれるものとなってしまう。そこを打破しようと呼びかけている点で、この批評は新しい。書き手=読み手のネット詩界では、効果的だ。
ただ、この批評も読み手の自由を奪ってしまう可能性がないとはいえない。
読みというのは、心の中の奥深い作用がそうさせているのであって、よめないものだ。それが文章を育てることもある。もっと広い普通の世界では、考えさせられる読みが無数にあることもわすれてはならないだろう。

しかし宣言しないやり方もある。黙って詩を書いて結果を出すのだ。僕自身は、別に「フィクショナル」な詩を意図して書くのでもなく、とにかく出て来てのお楽しみという自分の可能性をさぐりたいというか、そういう感じなので、大覚さんとは、ちがうかもしれない。
それに、単純に云って、詩が読まれない理由は「書き方」「読まれ方」の問題だけではないと思っているからだ。詩の市場性は、小さい。売れない。簡単にはわからない内部事情もある。
今、「詩」はその命を繋ごうとして、もがいている。過渡的状況といえよう。詩がたくさん読まれたい、そうなるためにはと誰もが考える。だって読まれたいもの。よりわかりやすく力強いことばを求めて書く人もあるし、今までの伝統にのっとって、詩を構築する人もあろう。
しかし、「詩」さんは読まれることを今のぞんでいるんだろうか?
そんな人為だけでどうにでもなるものだろうか?
詩人が読まれたがっていても、「詩」さんは一体何を求めて、あるいは求めていないんだろう。

ことばのもつ力を大覚さんはいうが、ここは難しいところだ。ことばは誰のものでもない。
そういう意味で大覚さんのいうとおり「私」性からもっとも程遠い。
ただし無力な私たちは、自分という通路を通してしか「ことば」に触れられない。しかし、「ことば」は「私」を遠く連れ去る瞬間がある。それを僕のやり方では丹念に書いていくしかなかろうと思ってる。
そういう意味で「ことば」という誰のものでもないものに、静かに身をゆだねるとき「詩」は生れてくるのだろう。のん気に聞こえるかもしれないが、そういう方法が一番遠くて近いと思われる。
もちろん大覚さんのやり方もあるし、僕はいろんな方法で「ことば」と自分との関係を探っていきたいと思う。大覚さんの詩には、彼自身の批評にはあらわれない良さもあるかもしれない。

ともかく、詩人は読まれたがっている。そこをつついてて、刺激的である。僕も批評を書く気が起きた。


散文(批評随筆小説等) 「詩」さんは何を求めているのかー「詩と”私”を切り離せ」を読んで Copyright 石川和広 2005-08-08 19:06:12
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