空を飛ぶために捨てなければならないもの
いとう


益野大成さん「飛ぶ」に寄せて
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42285



空を飛ぶ夢を見たことがあると思う。
「飛ぶ」という身体感覚を感じることの不思議さ。
そう。不思議なことなのだそれは。
けれども私たちはそれを知っているのだ。

まず、
片仮名の不思議な語感が浮遊感を与えてくれる。
ぜひ音読してみて欲しい。
風との対話を楽しむことができる。
この片仮名によって、読者も飛ぶことができる。
そしてもちろん、
この作品は浮遊感のみに焦点を当てて満足すべきものではない。
「飛行者」は、何故飛んでいるのか。
そこに「詩」がある。


飛ぶという身体感覚を得るために排除すべきものは、
皮肉なことに、身体そのものだったりする。
人は飛べない。身体を持つ限り、飛ぶことができない。
それは夢なのだ。夢の中だけで飛べるのだ。
「この飛行者には」から始まる連では、
作品の構成として様々な変化が起きている。
表記のうえでは片仮名が消え、
人称が一人称から三人称へ変わる。
そして、これらの変化は
「飛行者」の失ったものの記述という、内容の変化に内包される。
この飛行者は、飛ぶために多くのものを捨てた。あるいは捨てざるを得なかった。
そして捨てたからこそ、飛んでいるのだ。

飛行者には何もない。自分自身の身体もない。
文字どおり、「僕の亡き」その身体は、
「石」のように哀しく、
遥か下方の「地上」に「ちいさな地蔵と影」となって表れている。
自身を示す物が捨てさられ、他者との関係も消え、宿命すらもなく、
そらをとぶ、ゆめだけがのこり、そして、ゆく(逝く)のだ。




散文(批評随筆小説等) 空を飛ぶために捨てなければならないもの Copyright いとう 2005-07-27 00:18:05
notebook Home 戻る  過去 未来