ウォーリーをさがして
ヤギ

 10年くらい前「ウォーリーをさがせ!」(マーティン ハンドフォード著 フレーベル館)という絵本が流行った。ストーリーはなく、見開きいっぱいに描かれたたくさんの人の中から、縞々シャツのウォーリーを探して遊ぶのだ。誰かを探すわけじゃなくても、たくさんの人が描かれた絵というのは子供向けの雑誌なんかでよく見られた。僕はそういう絵が好きだった。一人一人に感情移入して、その人たちが何をやっているのか想像するのが楽しかった。

 もう少し大きくなって、僕は電車やバスから街を眺めるのが好きになった。人が見えても楽しいけれど、家の中にどんな人がいて何をやってるのか想像するのは面白い。さらに経って、遠くに見える街の人についてだけではなく、人ごみの中で周りの人々について色々想像するようになった。「出かける前、時間がなくて、使った食器はテーブル置いたまま…」「帰ったら『暑いー』と叫びながら靴下を脱いで床に倒れこんで・・・」男女を問わず、年齢を問わず、めったやたらに妄想する。同年代の男なら簡単だ。高校生は懐かしい。女の子については多分間違いだらけだ。中年、老人、小学生、その生活を考える。そして人は様々だと思う。

 あるときある場所に人がゴッチャリ集まっているというのは、たくさんのものさしが、違う目盛りで重なっているということなんだろう。その目盛りは年齢だけじゃない。心の持ち方、賢さ、強さ、荷物、環境、欲、大切なもの、周りへのスタンス、全て違う。それは視界と言葉が違うという事だ。誰でもそれぞれの視界と言葉で生きるしかない。

 「それぞれに、人が、今、生きている。」

 ただその不思議が僕を捕らえる。それは閃光のようで、目の前を真っ白にする。大げさではなく、たまに立っていられなくなる程に眩しい。街中の人々ばかりではない。友人たちも、両親も、僕もそうなのだ。そう思うと体が震える。自分でうんざりするような感情や欲も、それは決して綺麗ではないとしても、眩しい。これまで何をしてしまっていても、生きていることは間違いなく眩しい。ぶつかるたびに焼き切れながら生きている。閃光のように人々が今生きている。


散文(批評随筆小説等) ウォーリーをさがして Copyright ヤギ 2005-07-20 05:50:20
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