小説 『暗い海』
かのこ

 「ありがとうございます」とコンビニの店員が微笑みかける。僕にではない。ただ、この人、どこかで会ったことがあるような・・・。そう思った時、いつも妙な妄想をしてしまう。もしかして、世界にはほんの数十人の人間しか存在していなくて、その数十人は代わる代わる僕の前に現れては『僕の人生』という舞台を演じているのでは、と。もしかして、僕はみんなに陥れられ、笑われているだけなのではないか、と。そんなわけがないとわかっていながらも、時々そう思えてならないことがある。だって僕の人生はおかしいくらいによく出来た悲劇みたいだ。いつだって僕ばかりが必死で、なのに結局いつだって僕は笑われる。他人ばかりが優秀な人間に見える。そのよく出来た微笑は、そんな僕に「ヒガイモウソウ。ジイシキカジョウ」と笑っているように思えた。

 「おはようございます」と職場の女性が微笑みかける。僕にではない。「おはよう」と僕が返したときには、誰も僕のことなど見てはいない。だけどいつものことだ。気にはならなかった。それどころか、奇妙な笑いさえ込み上げてくる、その異常さを自分もどこかで感じていた。この日も僕は数十人の人間にかこまれて黙々と仕事をする。だけど人間を相手にしているという感覚はまるでなかった。ただ、笑い声が怖かった。

 妄想は酷くなっていった。ばかばかしいと否定すれば否定する程に。毎朝6時半に起きて、顔を洗い歯を磨き朝食を取り、満員電車に乗って通勤、仕事をして家に帰り夕食を取りテレビを見て寝る。それだけだ。何の夢も見なかった。

 「辞めて頂きたい」と言われた。ある日、突然にだ。だけどその時も僕は確かに無感動で、抑揚のない声で「わかりました。」と答えた。その様があまりに惨めに見えたのだろうか、部長は申し訳なさそうに「君が悪いわけではないのだよ。ただ不景気で・・・」と弁解し始めるのだった。だけどそれはやはり僕にではない。ヒクヒクと込み上げてくる奇妙な笑いが止まなかった。
その日の帰り道、僕はいつもの駅で降りられなかった。何故だかわからないが、電車に揺られて小一時間、見知らぬ小さな田舎の駅に辿り着いた。僕は何も考えず、そこで下車した。
どうやらそこは海沿いの町のようだった。駅名の書かれた看板は潮風にさらされ端の方が錆びていた。僕は風の吹いてくる方向に歩いていったのだが、そうするとすぐに波の音が近付いてきた。転々とある閉まりかけの小さな雑貨店などがやけに物静かで、それは日常からかけ離れた世界みたいだった。辺りはだんだん暗くなって、少し寒くもなってきた。だけど僕は歩いた。
冷たい波の打ち付ける、目の前には無数の黒いテトラポット。暗い海。辿り着いたそこには何もなかった。
僕は知っている。本当は、道の途中で倒れて歩けなくなっても、誰も何も言わないこと。ぐったりと動かなくなった僕の体を、誰しもが何食わぬ顔で避けて歩いていくだろう。だから僕は決して泣き言などはもらさなかった。歯を食いしばり、倒れまいとただ歩いた。けれど、目的地には何もないことも、本当は知っていた。
だから、海に飛び込むことはせず、その日は小さな食堂で食事を取り、家に帰った。

 僕の怖れる笑い声は、波の音にかき消された、その日、僕は夢を見た。
熱く焼けた海岸沿いのアスファルト。大きく湾曲した道を、ピカピカの車で行く。僕はもう僕じゃなかった。例えばその派手な車や、僕の着ているその服や時計などにお金をかける必要があった。何故かと言うと、僕はその存在に意味を持ち、その騒がしい世界から必要とされていたからだ。その日は一人きりでの短いバカンス。とても気分が良かった。白いガードレールの向こうから、アクアマリンの海が覗けた。熱い砂浜に冷たい海の中、一頭のイルカと戯れている僕。自分を失くさずに、自分を脱ぎ捨てた僕がそこにいた。
昔の知人たちは、僕という人間を数十秒かけてやっと思い出し、驚きの声をあげる。あんなに地味で冴えなかったやつが、大人になって社会的にも個人的にも理想とされるような人間になっていることに。そして彼らは、悔しさや疑念の混じった気持ちで、やはり僕のことを少し軽蔑するのであった。
アクアマリンの海に夜が訪れようとしている。僕はまた少し、僕を見失いそうになる。もう帰ろうかと思ったその時、暗い海の浅瀬に一艘のボートか何かが引っかかって揺れているのが見えた。近付いて見てみると、それはボートではなく、イルカだった。昼間、一緒に泳いでくれたイルカだ。僕は濡れたその背を撫でて、泣いた。その時、やっと泣いた。イルカになりたいと強く思った。暗い海にうまく同化できずに、それでも乾いていく背をずっとさすっていた。イルカに、なりたかった。

 目が覚めると、そこには波の音も笑い声もなかった。日常の音があった。僕を笑う声は、もう僕の前からみんな消え去ったように思えた。


散文(批評随筆小説等) 小説 『暗い海』 Copyright かのこ 2005-07-20 05:35:47縦
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