去りにし日々、今ひとたびの幻
佐々宝砂

シェルターの中は安全なのよ と
おかあさんはいう
外に出たらみんな死んでしまうんだ と
おとうさんはいう

てんじょうによじのぼって
あけちゃいけない外も見えないまどに
そっとほおをあてて
耳をすませば

やさしい声が歌う
なんだかなつかしい声が歌う

その歌の調子だけは
はっきりとおぼえているのだけれど
歌詞はどうしてもおぼえていられなくて
それがかなしくてたまらなくて
わたしはいくども耳をすます


おかあさんが死んで
おとうさんはへんになった
まいにち奥のガラスに顔をくっつけて
まぼろしを見ている

おかあさんが見えるときもあるし
おかあさんじゃない女のひとが見えてるときもある
だれも見えないときもある
それでもおとうさんはいっしょうけんめい見ている
なんでもいいんじゃないかと思う

わたしは最近はまいにち
シェルターの外にでる
だあれもいなくて
てかてかひかる黒いガラスが
あたりにたくさん散らばって
すごくほこりっぽい

ときたま風のなかに声がきこえる
歌う声がきこえる
あの声をきくとわたしは泣きたくなる
からだの奥がどおんと痛くなる

わたしよりすこし低いあの歌声は
近ごろはもうおだやかでなく
ヒステリックにさけんでいるのだ


父さんは返事もしてくれなくなった
毎日ただ奥のガラスを見ている
人類がまだたくさんいたころの
ピッグ・ボムが地表を焼くまえの
去りにし日々の
今ひとたびの幻を

私は父さんを捨てようと思う
持てるだけの食料をリュックに詰め込み
着られるだけの服を着込んで
ちょっとだけノスタルジックな気分になって
ふりかえる
でも父さんはこっちを見ない
父さんは当分のあいだ死なないだろう
私の不在にも気づかないだろう

シェルターから這い上がる
歌がきこえる
今日は切なく静かにきこえてくる
歌詞はわからない
でも意味はわかる
今は私にもわかる
あの切実な欲望の意味が

だから私は出かけるのだ


逢ったことのない
見たことのない
あなた

あなたが
去りにし日々の今ひとたびの幻
ではないと
信じていいですか

逢ったことのない
見たことのない
あなた
愛しいあなた






タイトルを昔のSFから借用しています。
『去りにし日々、今ひとたびの幻』
ボブ・ショウの古いSF長編。
サンリオSF文庫刊、絶版。



自由詩 去りにし日々、今ひとたびの幻 Copyright 佐々宝砂 2005-06-13 05:47:11
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